
父は佐賀藩士・松林源蔵(4代目)の長男・松林公一。写真師・松林一十は父の弟(三男)にあたる。松林公一、松林一十ともに上野彦馬に学んでいる。父ではなく松林一十 (松林写真館)に写真術を学び、のち上京して浅草で松林堂を開業した。明治中期頃、角田吉三郎は松林康平の写真版権を取得し、販売した。また、裏面に「W・TAKAYASU」と印刷された台紙があり、高安という技師が居たと思われるが不詳。
佐賀藩士・松林家は、藤原鎌足に始まり、藤原藤綱の時に松林姓を名乗ったというが確証がない。 (藤原鎌足 - 藤原不比等 - 藤原房前 -藤原魚名 - 藤原藤成 - 従三位松林中将藤原藤綱)
藤原藤綱は伝えによると、松林郡に山城を築き、松林中将と号した。昌泰2年、菅公が大宰府に下向の時、父が筑前国司となるときに勅命により守護となり大宰府に下向した。松林中将藤原藤綱の子が、従四位少将松林藤重、その子が従五位筑前守松林重国、その子が従四位備前守松林重家であるという。松林重家から何代か経て従五位左衛門太夫松林政広の時代に筑前国御笠郡を賜る。松林政広の子が左衛門尉松林政国、その子が同兵庫頭松林政時、その子が初代・松林源蔵(松林浄傑)である。 2代目松林源蔵(松林弥左衛門)は、初代の弟であり、長崎御番の為深堀に来村、御番所で没した。 3代目松林源蔵(松林左次右衛門)は安永7年(1780)没している。 4代目松林源蔵(文政9年生、松林公一、松林一十の父、松林康平の祖父)は鍋島藩の士族。佐賀県白山に生まれた。幼名は松林林太郎、のちに松林猪次郎と改名、15歳で松林源蔵を名乗る。実父は松林大兵衛、実母は糸山家の娘。妻は村岡一兵衛の長女、村岡茂子。次男松林公次郎は後藤象二郎の高島に鉱山見習として入社している。
熊本に松林という写真師がいるが、関係性は不詳。
生年/出身: 佐賀
開業年:
開業地、主要拠点: 東京(浅草公園第6区)
師匠: 松林 一十
弟子: 高安 W