
号は 上田松翁。妻は大阪の木下重兵衞の長女・タネ。大阪上田家第十三代・上田文斎とやすの次男。父・上田文斎(号は維暁)は漢方医であり、文人として『内国旅行日本名所図絵』全7巻を執筆している。上田文斎は適塾や京都舎密局に学び、和漢蘭学を修めた儒医で、上田家は十三代にわたって大阪で儒医として郷学を指導し医療にあたっていた。幕末には鴻池家と深い関係にあり、複数の藩の藩主お目見えの役職にあったことから、大名貸の取立てを手伝うなどしていた。
長兄・野々村藤助(本名は謙吉)は薬局経営をしており、引退後、朝鮮で料亭「白水」を経営し成功している。
次弟・青木恒三郎は明治・大正期大阪を代表する総合出版社「青木嵩山堂」を開業しており、『世界旅行万国名所図絵』『内国旅行日本名所図絵』を刊行。
三弟・上田竹翁(本名は寅之助)はカメラ技術の専門家であり和英辞典の編纂者。
明治10年、大阪薬学校を卒業し上田家の家業の薬局を継ぐ。(上田家十四代となる)
明治13年、家督相續。薬剤師と兼務で写真材料商(上田寫眞機店)を営んでいた。
明治19年、関西薬学校(大阪大学薬学部の前身)を設立し初代校長を務める。
明治35年、大阪心斎橋筋北詰(南船場3丁目)に写真材料店「上田写真機店」を開業。門人に製銅業者の稲垣虎之輔や写真家の入江泰吉などがいた。なお、 写真師・工藤利三郎は没後にガラス原版の一部が奈良市に引き取られ、入江泰吉記念奈良市写真美術館に保存され国の有形文化財に指定されている。
明治39年、日露戦争の勝利を記念した大阪戦捷記念博覧会では、美術及美術工芸の展示に写真部門が含まれ、小田垣哲次郎、桑田正三郎とともに常務委員を務めている。写真販売としては、写真収集家の和田奈良松(父は写真師・和田猶松)の影響もあった。
後には大阪写真材料商組合組長なども務めた。
大正15年、合名組織に改めた。
アマチュア向けの雑誌『写真要報』を発刊している。
またキリスト教徒で、聖書の収集家としても知られる。
大阪府泉北郡浜寺町諏訪ノ森駅前の自宅に基督教史料・写真史料を集めた「上田文庫」を構えていたが、のち大阪市立大学に委託管理され「上田貞治郎写真史料アーカイブ」として研究が進められている。
昭和19年死去。
四女・上田安子はファッションデザイナーでで上田安子服飾研究所を創立し、山崎豊子の小説『女の勲章』のモデルとなっている。長女・上田百子の長女・光子は大丸社長の井狩彌治郎に嫁す。
生年/出身: (萬延元年) 大阪
開業年: 1880
開業地、主要拠点: 大阪(心斎橋筋順慶町北)
師匠:
弟子: 上田 竹翁