【古写真の調査後売却】明治天皇女官・生源寺伊佐雄(写真師・中島待乳撮影)

明治天皇の女官・生源寺伊佐雄古写真中島待乳
明治天皇の女官・生源寺伊佐雄古写真中島待乳写真師

◆写真師 中島待乳

◆生源寺伊佐雄
日吉大社社家(左方)家の出身。
生源寺平格(梅辻秋漁:1824~1897、儒学者)の3女。生源寺希聲(梅辻春樵:1776~1857、漢詩人)の孫。
文久3(1863)生まれ
昭和25(1950).12.16死去
明治12(1879)出仕(16歳)した明治天皇(昭憲皇太后)の女官。権命婦、従六位、「梢権命婦」と呼ばれた。

◆父・生源寺平格(梅辻秋漁)
1824-1897 幕末-明治時代の儒者。
文政7年生まれ。梅辻春樵(しゅんしょう)の子。父にまなび,大学寮講師をつとめる。維新後は韮山中学校長となった。明治30年4月28日死去。74歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。名は更張(つぐはる)。字(あざな)は玉佩。別号に彩連,平格。編著に「織錦学製集(しょっきんがくせいしゅう)初編」。

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◆祖父・生源寺希聲(梅辻春樵)
江戸後期の儒学者・詩人。近江坂本日吉神社の神職。別姓に琴、名は希声、字は延調・子琴、別号を豈軒・無絃、通称は勘解由。皆川淇園・村瀬栲亭にまなぶ。京都に出て開塾し、著に『春樵詩草』がある。安政4年(1857)歿、82才。

◆養子・生源寺順
正四位勲二等 東京府在籍
明治20、東京、梅辻操の二男として生まれる
明治35、滋賀、宮内女官・生源寺伊佐雄の養子となる
明治44、東京帝大機械科卒
大正8、工学博士
九州帝大教授、名古屋帝大工学部長
財団法人・斯道文庫理事兼文庫長

◆中島待乳
本名は精一。幼名は助次郎。 中島清兵衛の二男として生まれる。 文久年間、オランダ船が漂着した際、乗組員の懐中時計に貼られた写真を見て、興味を持った。 元治元年、父により丁稚奉公のため江戸に連れ出されたが、拒んで帰郷した。 慶応 3 年、南画家・中林湘雲が銚子に来訪した際入門し、江戸に出た。 日本橋区本町穂積屋・清水卯三郎から漢訳の写真書を入手。 福地源一郎にレンズ製造法を教わり、漢訳の写真書を翻訳してもらう。 また京橋区竹川町の眼鏡商・玉屋松五郎にレンズ研磨法(構成法)を学んだ。 明治元年、吉原で試験撮影を開始。 明治元年、火事により機材が全焼。 明治元年、横山松三郎に師事し、修正術・採光法を学んだ。 なお、待乳の号は横山松三郎が浅草名勝待乳山に因んで付けたとされる。 明治 5 年、陸軍省や山城屋に勤めた後、玉屋に住み込み、レンズ・写真機の自作に成功。 明治 6 年、玉屋松五郎が死去。 明治 7 年、浅草区材木町に写真館待乳園を開業。 明治 9 年、横浜から浅草に移っていた下岡蓮杖のもとを訪れている。 下岡蓮杖は横浜で使っていた写真機などを中島待乳に与えたという。 明治 10 年頃、幻灯機の製造を試み、手品師・帰天斎正一等から注文を受けた。 明治 10 年、第一内国勧業博覧会で褒賞受賞。 明治 13 年、秋尾園と結婚。 明治 13 年、教育博物館長・手島精一が師範学校等の教材として幻灯の導入を推進。 その際、鶴淵初蔵と共に製造を請け負う。 明治 14 年、第二回内国勧業博覧会では人像カーボン印画を出品し有効賞。 明治 19 年、幻灯機の改良を重ね、ライムライトを用いた「水酸瓦斯機械」を発明。 また、画家の妻・松尾園とともに種板の制作に力を入れた。 明治 23 年、第三回内国勧業博覧会では写真及幻燈器、幻燈映画等一式を出品し有効賞。 明治 27 年、日本橋区呉服町一丁目 1 番地に移転。 明治 40 年、第六回内国勧業博覧会審査員。 明治 44 年、全国写真大会発起人総代。東京写真師組合顧問役。 晩年は牛込区弁天町に住んだ。 昭和 13 年死去。多磨霊園に葬られた。妻は秋尾園。 甥・勲(秋尾新六の次男、のち中島待乳の養子)は、陸軍工兵大尉として航空写真に従事していた。