【古写真の調査後売却】日本医科大学学長・中原徳太ほか肖像

日本医科大学学長・中原徳太ほか古写真
写真台紙日本医科大学学長中原徳太ほかs

◆明治40年頃、ドイツ・ベルリンでの撮影。

◆中原 徳太郎
(なかはら とくたろう、明治4年7月20日(1871年9月4日) – 昭和2年(1927年)11月17日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、整形外科医。日本医科大学学長。憲政会幹事長を歴任。 京都出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学を卒業後、同大学助手に任命されたが、楽山堂病院副院長に転じた。日露戦争中は陸軍篤志医員として活動した。1907年(明治40年)、ドイツに留学し、医学博士の学位を得た。1914年(大正3年)、楽山堂病院を辞職して、中原病院を開いた。 同年、日本医学専門学校教授に就任し、1918年(大正7年)に校長になった。1926年(大正15年)に日本医学専門学校が日本医科大学に昇格すると、引き続き学長を務めた。 1923年(大正12年)、衆議院議員補欠選挙に当選。翌年の第15回衆議院議員総選挙で再選された。

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◆久保田 政周
(くぼた きよちか、1871年(明治4年4月) – 1925年(大正14年)1月22日)は、栃木県知事、三重県知事、東京府知事および内務次官を歴任した内務官僚。後に、横浜市長も務めた。
明治4年4月(1871年) – 久保田政孝(北海道出身)の長男として東京下谷竹町で生まれる。1895年(明治28年) – 東京帝国大学法科大学独法科を卒業する。1895年(明治28年)11月 – 高等文官試験に合格し、内務省土木局に入る。 内務省書記官、警保局警務課長などを務める。
1906年(明治39年)8月10日 – 1906年(明治39年)12月7日 – 栃木県知事となる。
1906年(明治39年) – 南満州鉄道株式会社設立に伴い、後藤新平総裁に嘱望され、理事に就任。
1906年(明治39年)12月 – 赴任し、関東都督府参事官を兼務する。
創業時の南満州鉄道の地方部を統括し、同社付属地の支配取締、教育、勧業、衛生などの基礎を築く。
1911年(明治44年)9月 – 退任帰国。
1911年(明治44年)9月4日 ‐ 1912年(大正元年)12月22日 – 三重県知事となる。
途中、内務省土木局長、鉄道院理事などを務める。
1914年(大正3年)4月21日 – 1915年(大正4年)7月2日 – 東京府知事となる。
1915年(大正4年)7月30日 – 第2次大隈内閣の内務次官となる。
1916年(大正5年)10月9日 – 内務次官を辞し、退官する。
1918年(大正7年)8月26日 – 1922年(大正11年)5月27日 – 横浜市長となる。
1924年(大正13年) – 東洋拓殖株式会社総裁。
1910年(明治43年)12月26日 – 勲三等瑞宝章
1915年(大正4年)11月10日 – 大礼記念章
1916年(大正5年)1月19日 – 勲二等旭日重光章
1925年(大正14年)1月22日 – 勲一等瑞宝章を受ける。

◆高壮吉
九州大学工学部採鉱学教室の教授。1869(明治2)年に東京で生まれ、同30年に東京工科大学冶金科を卒業し、八幡製鉄所を経て、同製鉄所技師兼務で九州大学の教授となります。氏の鉱物コレクションは大型結晶の標本が多いという点で知られていて、上述のように3大コレクションとも言われています。高壮吉鉱物標本は明治45年(1912年)から昭和4年(1929年)まで工学部採鉱学教室の教授であった高壮吉により、1890年代から1930年代にかけて蒐集されたもので、約1200個の標本よりなっています。標本の産地は世界各国に及んでいますが、とくに日本に産した見事な鉱物結晶の標本を主体としており、東大の若林標本、和田標本とともに20世紀初期の三大標本の一つに挙げられています。