【古写真の調査後売却】天才書家・山岸荷葉

山岸荷葉古写真鶏卵紙
山岸荷葉写真台紙

◆山岸 荷葉
(やまぎし かよう、1876年1月29日 – 1945年3月10日)は、日本の小説家、書家、劇評家。本名、惣次郎。
日本橋通油町の丸合小間物問屋(扱い品:鼈甲・朝鮮・眼鏡・鏡・磁針)加賀屋(吉郎兵衛・通称:加賀吉・屋号:山吉)の次男。雲石と号し、巌谷一六門下の天才書家として知られる。加賀屋を継いだ兄山岸定吉の妻つるの従兄弟に当たる尾崎紅葉の門下に入り、硯友社同人となる。明治36年(1903年)川上音次郎一座が上演した「ハムレット」の翻案を土肥春曙とともにおこない、ハムレットを葉村年丸とした。明治39年(1906年)には同座にメーテルリンクの「モンナヴァンナ」を翻訳するなど劇界にも活動した。1945年3月10日の東京大空襲で死去した。

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◆自由新聞
(じゆうしんぶん)は、明治時代に自由党が刊行した日刊の党機関紙。板垣退助は1882年に自由党を結成したが、当時の新聞社は矢野文雄が社主を務める郵便報知新聞などの立憲改進党系と福地源一郎が社主を務める東京日日新聞などの立憲帝政党系に分裂し、自由党を支持する新聞社は皆無に近かった。そこで板垣らは同志から資金を募って日刊新聞を発行する株式会社を結成して党の機関紙を出すことを計画した。1882年6月25日、東京において自由新聞が創刊される。社長は板垣が就任し、馬場辰猪・中江兆民・末広鉄腸・田口卯吉ら当時の名高い論客が編集・発行に携わった。定価は1部3銭で推定発行部数3000部。だが、資本金が見込みの2割程度しか集まらず、新聞紙条例による明治政府の弾圧、自由党の内紛による馬場・末広・田口らの退社などで打撃を受ける。古沢滋・星亨の元で再建を図るが、自由党解党後の1885年3月に廃刊となる。その後、自由党が再建された1890年10月に再建されるも、党の分裂騒動を機に反主流派に追い込まれた社主である板垣が退社して新機関紙創設を決定したため、翌年3月に再度廃刊、同年4月に板垣らが創刊した新機関紙『自由』が分裂騒動の解決に伴って正式に機関紙と認められて、1893年7月に自由新聞と改題するが、1897年1月に『明治新聞』と改題され、自由党から離れていくことになる。

◆巖谷 一六
(いわや いちろく、天保5年2月8日(1834年3月17日) – 明治38年(1905年)7月12日)は、近江国(滋賀県)出身の書家、官僚、漢詩人。本名は修(しゅう)(幼名は辨治、ついで迂也)、字は誠卿。特に書家として名高く、一六(一六居士)はその号で、別号に迂堂・古梅・金粟道人などがある。日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波はその三男。天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。巌谷家は代々水口藩加藤家の侍医で、姓は正しくは「巖谷」と記す。ただしもとは「岩谷」で一六の時に字を改めたものである。父玄通が天保10年(1839年)一六が6歳の時に亡くなり、家督を嗣ぐも幼少のため、しばらくして母利子とともに京都に赴き、同地で医術を三角棣園に、漢籍を皆川西園・家里松嶹に、書を安見氏に学んだ。幼少より能書で聞こえ版下書をして学費を補った。安政元年(1854年)水口に戻り立的(りゅうてき)の名で藩医を勤める一方、藩の儒者で藩政改革の指導者であった中村栗園に師事し、「正義党」の一員として当時二分していた藩論を尊王へと導くに奔走した。この間多くの漢学者や勤王家と交流した。慶応4年(明治元年・1868年)4月、徴士として新政府に出仕し、総裁局史官試補を振り出しに書記官僚の道を歩み、主に詔勅をはじめとした公文書の起草・浄書に携わった。三条実美の知遇も得て、枢密権大史、太政官大書記官、一等編修官、修史館監事、内閣大書記官、元老院議官などを歴任した。1890年(明治23年)10月20日、元老院が廃止され議官を非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ[1]、1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる[2]。同年4月15日、貴族院勅選議員に任じられた[3]。1905年(明治38年)、腎炎のため72歳で没した[4]。戒名は文簡院古梅誠修居士。その墓は京都市東山区霊山の正法寺にあり、顕彰碑「従三位巖谷君之碑」(楊守敬篆額・三島中洲撰文・日下部鳴鶴書丹 明治44年建立)が滋賀県甲賀市水口町京町の大岡寺境内に建つ。なお両親までの一族の墓所は同市水口町城内の真徳寺にある。はやくから能書家として知られ、日下部鳴鶴、中林梧竹と並ぶ明治の三筆の一人と称される。初め中沢雪城に師事して菱湖流を学んだが、明治政府出仕後は旧習を脱して、顔真卿の書を基盤とした雄渾な書風へと転じている。さらに1880年(明治13年)に来日した楊守敬から六朝書法を学び独自の書風を確立する。各体をよくし、特に行草書は瀟洒な風をなしている。とくに閑職となってからは各地に旅行し多数の揮毫作品が伝わる。また日下部鳴鶴と同様数多くの石碑の文字を書いており、現在も全国に250基以上の碑が残っている[5]。aまた、甲賀市水口歴史民俗資料館(甲賀市水口町水口)に「巖谷一六・小波記念室」があり、近年明治4年から12年にかけての自筆日記や、没後編纂された『一六遺稿』未収録の漢詩文稿が収蔵され、それぞれ翻刻公刊された。

◆成瀬 大域
(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 – 明治35年(1902年)2月5日)は、書家である。字は子直。通称は久太郎。大域、賜硯堂主人と号する。本名は温(ゆたか)。遠江国佐野郡日坂(現・静岡県掛川市日坂)出身。書を母方の祖母巣甫に学ぶ。明治初年、東京に出て、漢学を安井息軒・芳野金陵・川田甕江に学ぶ。安井の塾にいたとき、安井の作詩を代書した。明治8年(1875年)、宮中に出仕し、明治12年(1879年)、勅命によって王羲之の『集字聖教序』を模して献じ、明治天皇はこれを嘉して楠木正成の遺物である尚方の硯を賜り、その居に賜硯と扁した。ついで諸葛孔明の「出師表」の真草2幅、明治14年(1881年)、十体書幅を献じた。明治13年(1880年)の楊守敬の来日に始まる日下部鳴鶴・巌谷一六・松田雪柯・中林梧竹を中心とした六朝書道は正しい書道ではないとして非難し、長三洲らと同様に顔法(顔真卿の書法)に傾倒した。また、字学に精通し、文部省検定習字帖の誤字を正した。