
仙台で3番目の写真師とされている。なお一番目は高桑義守、2番目は松尾柳外。
父は仙台藩医・遠藤如寛。『仙台人名大辞書』には仙台藩医・遠藤恕幹(如幹)の弟という記述があるが、誤りと思われる。『明治人名辞典』に姉妹兄弟 21 名であったと記されている。
本名は遠藤虎吉、遠藤寛典。遠藤家は仙台藩の武士で洋式銃隊・額兵隊に属しており、楽隊改役、差図役喇(口八)を歴任した家系。父、兄共に仙台藩の医師。 戊辰戦争で新政府軍と戦うが、敗れて函館戦争にも参加した。函館で写真技術を学んだとされているが、確定できる資料はない。
二人の弟(遠藤寛哉(8男)、遠藤誠)とも医業を志すことなく、3人で写真師となる。
明治 9 年、仙台で写真館を開業。明治 21 年、磐梯山噴火の際、被害状況を撮影した一組(28 枚)の「磐梯山破裂写真」を販売した。明治 27 年、兄弟3人ともに日清戦争に従軍(仙台・第 2 師団)し、戦況を撮影。明治 28 年、戦勝記念写真帖刊行。先行して遠藤寛哉が台湾台南に遠藤写真館を開く。
明治 35 年、仙台・立町にあった写真館を廃業し、遠藤陸朗、 遠藤誠ともに台湾・台南(打銀街)に移り写真館を開く。のち遠藤寛哉は台南 を離れ、台北城内府前街 3 丁目 15 番戸で写真館を新設、長男(遠藤克己)も手伝ったという。
明治36年、弟の遠藤誠が死去。大正 3 年、台湾・台南で死去。死後も兄弟や弟子によって写真館は継続された。大正 9 年、近所の砂糖問屋で働く青年(後の写真家・木村伊兵衛)が写真館に通い始め写真を学ぶ。墓地は仙台新寺町小路魯鈍院。
明治15年、見立番付『宮城人物見立一覧表』に写真師・遠藤陸郎(遠藤陸朗)、松尾柳外と記載されている。松尾柳外は松尾官亮の別名か父と思われる
生年/出身: 1845 宮城(仙台藩)
開業年: 1876
開業地、主要拠点: 宮城(仙台市立町通)
師匠:
弟子: