【古写真の調査後売却】喜連川藩主家・長岡護美(鶏卵紙、手札名刺サイズ)

喜連川藩主・長岡護美古写真肖像
喜連川藩主長岡護美肖像写真台紙

◆長岡 護美(ながおか もりよし)
明治期の外交官・華族(子爵)・貴族院議員。錦鶏間祗候、麝香間祗候。肥後熊本藩主・細川斉護の六男。嘉永3年(1850年)5月、喜連川藩主・喜連川煕氏の養子となり金王丸と称した。嘉永7年12月1日、将軍徳川家定に拝謁する。安政3年(1856年)4月に元服し、喜連川紀氏と名乗った。官位は左兵衛督。しかし、安政5年(1858年)4月28日、喜連川家を離籍し、実家の熊本に戻った。明治元年(1868年)3月、明治新政府の参与に就任する。同月、従五位下・左京亮、同年閏4月、従四位下・侍従に昇進する。明治3年(1870年)、熊本藩知事で兄の細川護久に重用されて、大参事に就任する。藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など、当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。

1872年(明治5年)から1879年(明治12年)まで、アメリカを経てケンブリッジ大学に留学する。帰国後、旧熊本藩細川家から分家し、華族に加えられる。1880年(明治13年)、外務省に入省してベルギーやオランダの公使、1882年(明治15年)、元老院議官に就任する。1884年(明治17年)7月8日、男爵。1890年(明治23年)7月から翌年10月、1897年(明治30年)7月から1906年(明治39年)4月まで貴族院議員をつとめた。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる。1891年(明治24年)4月23日には子爵に陞爵。1906年1月24日、麝香間祗候となる。

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養子に、甥(護久の次男)の護全と、護孝(もりたか、実父は細川利永の婿養子・細川利文、夫人は細川護成の娘・英子)がいる。