【古写真の調査後売却】酒田三十六人衆・山田玄太郎(鶏卵紙、手札名刺サイズ)

古写真肖像酒田三十六人衆・山田玄太郎(加賀屋)

◆写真師 三島常盤
本名は吉野正治。新潟県刈羽郡二田村の物部神社神官、吉野民次郎の次男として生まれた。吉野家は代々神官を務める家であった。しかし、吉野民次郎は神官の道を避け、慶応年間に江差に出稼ぎに行き、年の半分(春夏)は蝦夷地で過 ごしていた。慶応 4 年、吉野民次郎は箱館戦争が勃発し帰れなくなり、蝦夷地で越冬する。明治 2 年、吉野民次郎は後志国余市郡山臼村に移住。明治 4 年、吉野民次郎は、札幌へ移住。明治 6 年、吉野民次郎は、余市郡山臼村に戻った。 明治 5 年、三島常盤は物部神社や三島神社の神官となる。明治 6 年、父の「西洋伝来の技術を身につけるべき」との勧めにより、神職を辞して北海道へ移住。のち、武林盛一の弟子となる。明治 30 年、森川愛三が学んでいる。三代目武林写真館本館(札幌南二条西一丁目)は養嗣子の三島徳次郎が継いでいる。三島徳次郎が、大正13 年死去。すでに南一条西六丁目で写真館を開業していた三島常盤の弟子・青木露村(直司)に貸して営業させた。息子は小説家の武林無想庵。なお、武林無想庵は幼少時に武林盛一の養子となっており、自らを武林盛一と名乗った時期もある。

◆山田玄太郎
小倉金之助、伊藤吉之助とともに酒田が生んだ学者。 山田家は加賀屋と称し、寛政2年から「三十六人衆」となり、問屋頭を務める豪商であった。明治6年、本町六丁目の廻船問屋・山田太右衛門の長男として出生。明治31年、山田玄太郎は山田家の8代目で、札幌の東北帝国大学農学科(北海道大学農学部)を卒業。卒業論文は「玫瑰天狗巣病菌及び其寄生に及ぼす影響」。指導教授が銹菌学の権威だったことによるが、生涯にわたって銹菌学を研究。赤星病菌の分類学的研究で大きな成果を上げ、植物病理学の泰斗と称される。卒業と盛岡高等農林学校に奉職、間もなく教授に昇進。明治36年、農学博士となる。大正4年、西ドイツのボン大学に留学。大正4年1月、鳥取高等農学校が創立され、初代校長になった。札幌時代、クラーク博士の「少年よ大志を抱け」に影響され、大正リベラリスト(自由主義者)の1人である。昭和11年、北大教授となって札幌に移住。