【古写真の調査後売却】浅草世界館 凌雲閣 万盛館

鶏卵紙写真浅草世界館 凌雲閣 万盛館

◆浅草世界館 凌雲閣 万盛館
曾我廼家 五九郎(そがのや ごくろう、1876年4月12日 – 1940年7月7日[1])は、日本の喜劇俳優。本名は武智 故平(たけち こへい)。大正時代にの浅草の「喜劇王」としてしられた。武智鉄二の父とは従兄弟どうし。またフランキー堺は五九郎の甥にあたる。1876年(明治9年)4月12日、徳島県吉野川市鴨島町に生まれる。角籐定憲、川上音二郎、福井茂兵衛などの壮士芝居(新派の前身)の一座を経て、満31歳を迎える1907年(明治40年)、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「曾我廼家五九郎」を名乗った。1910年(明治43年)には横田商会、1912年(明治45年)には吉沢商店の初期のサイレント映画に主演している。特に後者は東京・浅草公園六区に吉沢商店が経営していた浅草帝国館で公開されている。同年春に独立し同地帝国館にて一座を構える、このころから川上貞奴、小山内薫、歌舞伎の二代目市川左團次の自由劇場などの影響を受け、自らの一座に女優を積極に出演さたり、喜劇にオペラの要素を取り入れた「五九郎ミュージカル」を公演するなどその後の喜劇に大きな影響を与えた、同年、横田商会と吉沢商店は合併して日活を設立した。また、劇場どうしの引き抜き合戦の影響で、五九郎の一座は分裂、「〆太郎」と名乗っていた男が、曽我廼家五一郎と改名して、分裂した一座の座長となった。満41歳を迎える1917年(大正6年)、同年にオープンした東京・浅草公園六区の観音劇場の経営を根岸興行部に任され、一座で公演する。このころ、浅草の通俗教育昆虫館の経営を支援し、建替え資金を供出している。1925年(大正14年)、満49歳のころ、麻生豊の漫画『ノンキナトウサン』を映画化した畑中蓼坡監督の『ノンキナトウサン 花見の巻』、小沢得二監督の『ノンキナトウサン 活動の巻』に主演、浅草の日本館等で公開され人気を得た。トウサン役は五九郎の当たり役となった。同作は、小説家の直木三十五(当時・直木三十三)の経営する聯合映画芸術家協会が製作したもので、翌年には直木と提携するマキノ・プロダクションの牧野省三らの監督した『山賊』にも主演し、一座で出演している。同作は、牧野と提携していた高松豊次郎の経営する浅草の大東京で公開された。五九郎の一座には、武智豊子(1923年入団)、伴淳三郎(1931年入団)らがいた。1940年(昭和15年)7月7日、死去した。満64歳没。弟子の「一二三」が、「二代目五九郎」を襲名した。出身の吉野川市鴨島町鴨島の鴨島駅前に五九郎の碑がある。

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凌雲閣(りょううんかく)は、明治時代に大阪と東京に建てられた眺望用の高層建築物。大阪の凌雲閣は1889年竣工の高さ39m・9階建て、東京の凌雲閣は1890年竣工の高さ52m・12階建て。どちらも現存しない。明治20年代に高所からの眺めを売り物にした望楼建築がブームとなり、富士山縦覧場(浅草、1887年)、眺望閣(大阪、1888年)に続いて、大阪と東京に相次いで同じ「凌雲閣」と名付けられた眺望塔が建てられた。

東京の浅草凌雲閣は、浅草公園に建てられた12階建ての展望塔。1890年(明治23年)竣工。当時の日本で最も高い建築物であったが、1923年(大正12年)の関東大震災で半壊し解体された。名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する。日本初の電動式エレベーターを備え、「浅草十二階」、あるいは単に「十二階」という名でも知られている。

凌雲閣のあったとされる場所の地図(背景図はOpenStreetMapをもとに作成)
大阪の凌雲閣は、浅草の凌雲閣より1年早い建設で、西成郡北野村(現・大阪市北区)の和風庭園「有楽園」内に9層楼として建てられた。大阪ミナミにあった5階建ての「眺望閣」が「ミナミの5階」と呼ばれたのに対して、「キタの九階」と呼ばれた

今となっては跡地付近は浅草六区地区の建築物等の高さの最高限度のしばりを受けるが、当時は浅草公園の区外地である千束町(現在の千束と異なる)に建てられており、「浅草公園地第六区内建物高さ制限」に抵触せず高い建築物が可能であった。しかも、浅草公園六区で人気を博した木造の富士山・「富士山縦覧場」(高さ32.8m、1887年11月開場)が台風のあおりで1890年2月に取り壊した後でもあった。

浅草凌雲閣は、起案者は長岡の豪商であった福原庄七、基本設計者はウィリアム・K・バルトン(バートン)、土木工事監督は伊澤雄司であった。また、凌雲閣株式会社が設立され、初代社長として写真家で東京市会議員としても知られる江崎礼二が就任した。

東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置されたが、その設計にあたったのは当時東京電燈株式会社の技師で東芝の前身の一つとなる白熱舎(のちの東京電気)を創業した藤岡市助と報道された。電話設備は宣伝を目的として沖牙太郎が担当した。完成当時は12階建ての建築物は珍しく、モダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿が登場する。1892年に来日したアメリカ人貿易商ロバート・ガーディナーは「レンガ造りのこの建物は高さ320フィートで最上階の3階まで電動エレベーターが備わっているが、手入れが行き届いておらず、階段を上った」としているが、各階に飾られた絵や塔からの眺めの素晴らしさから東京観光でまず行くべき場所のひとつであると薦めている。

展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。1890年の開業時には「日本のエッフェル塔だ」(パリのエッフェル塔は前年1889年開業)と多数の見物客で賑わったが、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。

1911年6月1日に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。また隣地には、1912年2月「浅草国技館」が開館した。

なお、設計者のバルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、施工には反対したと後に親族は語っている。浅草十二階の下の一帯は銘酒屋街となっており、実際としては私娼窟と化していた。それで浅草で「十二階下の女」と言うと娼婦の隠語を意味した。

1923年9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊(火災も発生)。地震発生当時頂上展望台付近には12-3名の見物者がいたが、福助足袋の看板に引っかかり助かった1名を除き全員が崩壊に巻き込まれ即死した。

経営難から復旧が困難であったため、再建は断念され、同年9月23日に陸軍赤羽工兵隊により爆破解体され姿を消した。