
◆八代目 岩井半四郎
幕末から明治にかけての歌舞伎役者。女形の名優として名を馳せる。幼名は久次郎(ひさじろう)。屋号は大和屋。定紋は丸に三つ扇。俳名に燕子・紫若・杜若・紫童・梅我、雅号に八橘舎がある。紫童半四郎と通称された。
父は七代目岩井半四郎、母は四代目瀬川菊之丞の次女きい。幼くして幼名の久次郎の名で舞台に上がっていたが、本格的な歌舞伎役者としての初舞台は天保3年(1832年)11月江戸中村座で、三代目岩井粂三郎を名乗って「碁盤忠信雪白黒」門院侍女小侍従役が初舞台。後、祖父の五代目半四郎(当時は岩井杜若)や父と同じ舞台に立ち役者としての基礎を磨く。その後、父と祖父を相次いで失う不幸に見舞われるが、二十歳ごろから若手の有望株として評判を取るようになり、文久3年(1863年)2月に父親の前名を襲って二代目岩井紫若を襲名。

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幕末には八代目市川團十郎や四代目市川小團次の、明治になると九代目市川團十郎や五代目尾上菊五郎の女房役をつとめて活躍する。特に、二代目河竹新七(のち河竹黙阿弥)作の名作を初演に立ち会い、幕末期では『三人吉三廓初買』のお嬢吉三、『小袖曽我薊色縫』の遊女十六夜のちおさよ、『八幡祭小望月賑』のおみよ、『青砥稿花紅彩画』の赤星十三、明治に入ってからは『梅雨小袖昔八丈』のお熊、『天衣紛上野初花』の大口屋三千歳、『島鵆月白浪』の弁天お照などで、後世の基盤となる名演を示し大きな業績を残している。
明治4年(1871年)2月、江戸歌舞伎の大名跡である八代目岩井半四郎を襲名。明治6年(1873年)には中村座座頭となった。
女形随一の名優として有名で、美しい舞台姿が人気を博した。たいへんにひかえめな性格で、平素から女性のような生活を送っていたことでも知られる、江戸歌舞伎の名残ともいうべき女形役者だった。