
◆写真湿板
写真術で用いられた感光材料の一種である。1851年にイギリスのフレデリック・スコット・アーチャー(Frederick Scott Archer )が発明。
ヨウ化物を分散させたコロジオンを塗布した無色透明のガラス板を硝酸銀溶液に浸してヨウ硝化銀の感光膜を作ったものである。湿っているうちに撮影し、硫酸第一鉄溶液で現像し、シアン化カリウム溶液で定着してネガティブ像を得る。日本語では「コロジオン湿板」または単に「湿板」と呼ばれる場合も多い。
感度が高く露光時間が5秒から15秒と短いこと、1枚のネガから何枚でもプリントできたこと、画質がダゲレオタイプと変わらなかったこと、ダゲレオタイプと比較できないほど安価だったこと、アーチャーが特許を取得しなかったことから短い期間でダゲレオタイプやカロタイプを駆逐した。
日本にも、当時としては早く、江戸幕末期の安政年間(1854年-1860年)初めには輸入された。ダゲレオタイプも成功はしていたが実験段階に留まっており、日本に写真を定着させたのは湿板である。
上野彦馬は長崎の舎密試験所でヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから、下岡蓮杖は横浜でアメリカ合衆国人からそれぞれ湿板の手法を学び、いずれも1862年に写真館を開業、日本最初の営業写真家となった。上野彦馬は明治政府の命令で西南戦争を撮影した。これは湿板写真によるもので、これにより上野は日本最初の戦場カメラマンともなった。この従軍撮影も手伝った上野の弟子で、熊本で写真館を開業していた富重利平は1872年に熊本城天守を撮影しており、西南戦争で焼失した天守を第二次世界大戦後に再建する時に貴重な資料となった。

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最初はボディーレンズともに輸入であったが、日本の木工技術は優秀であり、やがてカメラボディーは日本国内で製造されるようになった。明治中期まで用いられたが、撮影直前にガラス板を濡らして乾く前に現像する必要があるため、1871年に写真乾板が発明されるとともに市場からほぼ姿を消した。
◆写真乾板
写真術で用いられた感光材料の一種で、写真乳剤(臭化カリウムの溶液と硝酸銀の溶液をゼラチンに加えてできる、光に感光する物質)を無色透明のガラス板に塗布したものである。ガラス乾板あるいは単に乾板と呼ばれる場合も多い。1871年にイギリスの医師リチャード・リーチ・マドックスが発明した。当初は青色にしか感光しなかったが、1873年にはヘルマン・フォーゲルが黄色と緑色に対する感光性を持たせる方法を発明し、1878年には工業生産されるようになり、箱入りで購入し好きな時に現像できるため短期間で湿板を駆逐した。さらに1884年にヨーゼフ・マリア・エーダーが改良した。感度も写真湿板の数倍と高く、ハンドカメラや瞬間シャッターの開発を促し、手持ち撮影も可能になりまたアマチュア写真家の参入を可能とした。
ベース素材を破損しやすいガラスからニトロセルロースに代替してより便利に扱うことができるよう改良された写真フィルム、特に何枚も巻き上げては撮影できるロールフィルムが1888年に登場して需要が減った。日本では1931年に起きた満州事変を契機とし財政の大膨張、金輸出再禁止、円安、軍需インフレーションで一般購買力が増大してアマチュアに写真が流行し、その際アマチュアは旧来の嵩張って重く不便な乾板カメラを避けてロールフィルムカメラを購入したので、たちまちロールフィルムが一般化したという。田中政雄は1935年を「乾板とロールフィルムの交替期に当たる」としている。1978年時点ではわずかにアグフア・ゲバルトがゲバパンを製造し日本にも大名刺判と大陸手札判が旭光学(現ペンタックス)の特需課により輸入されていた。