【古写真関連資料】写真師・ 武林盛一、三島常磐と、小説家・武林無想庵

武林無想庵

三島常磐
本名は吉野正治。 新潟県刈羽郡二田村の物部神社神官、吉野民次郎の次男として生まれた。 吉野家は代々神官を務める家であった。 しかし、吉野民次郎は神官の道を避け、慶応年間に江差に出稼ぎに行き、年の半分(春夏)は蝦夷地で過 ごしていた。 慶応 4 年、吉野民次郎は箱館戦争が勃発し帰れなくなり、蝦夷地で越冬する。 明治 2 年、吉野民次郎は後志国余市郡山臼村に移住。 明治 4 年、吉野民次郎は、札幌へ移住。 明治 6 年、吉野民次郎は、余市郡山臼村に戻った。 明治 5 年、三島常盤は物部神社や三島神社の神官となる。 明治 6 年、父の「西洋伝来の技術を身につけるべき」との勧めにより、神職を辞して北海道へ移住。 のち、武林盛一の弟子となる。 明治 30 年、森川愛三が学んでいる。 三代目武林写真館本館(札幌南二条西一丁目)は養嗣子の三島徳次郎が継いでいる。 三島徳次郎が、大正13 年死去。 すでに南一条西六丁目で写真館を開業していた三島常盤の弟子・青木露村(直司)に貸して営業させた。息子は小説家の武林無想庵。なお、武林無想庵は幼少時に武林盛一の養子となっており、自らを武林盛一と名乗った時期もある。

◆武林 無想庵
日本の小説家、翻訳家。本名は磐雄(いわお)、のちに盛一(せいいち)。
現在の北海道札幌市中央区に生まれる。父は写真師の三島常磐。幼少時に実父の師匠にあたる東京の写真師、武林盛一の養子となる。東京府立一中・一高を経て東京帝国大学英文科に進学、後に国文科に転籍した。在学中より小山内薫、川田順らと雑誌「七人」を創刊し、柳田國男らの竜土会に参加。ダダイストの辻潤らと親交を持つ。大学中退後に京都新聞社員となるも、その後、破滅的な耽溺生活に入り、放浪を繰り返す。

1920年、二番目の妻となる中平文子(後に宮田文子)と結婚後、渡欧。娘イヴォンヌが生まれる。滞欧生活は前後5回17年に及んだ[1]。帰国後は日本の現実と焦点が合わず不遇であった。

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1933年に緑内障から右目を失明し隻眼となり、1943年には左目も失明した。三番目の妻、波多朝子の筆記・編纂による会員制の個人誌『むさうあん物語』(全44冊別巻3冊・1957年-1969年)は彼の死後も刊行が続いた。享年82。墓所は雑司ヶ谷霊園。1926年、妻文子が交際のあった男に発砲される事件があり、世の話題となった。文子とは1921年に田山花袋の媒酌で結婚して渡仏し、パリ滞在中に娘イヴォンヌをもうけ、一旦帰国後再び夫婦で渡仏した。無想庵帰国後も文子はパリに留まり、ロンドンの日本料理店「湖月」の主人・川村泉と懇ろとなりパリに支店を開いたが、金銭的ないざこざからニースのホテルで川村から撃たれた。幸い軽傷で済んだ。文子は武林と離婚し、ベルギー在住の貿易商・宮田耕三と再婚して宮田文子となった。

1928年、かねてより親交のあった辻潤、辻まこと親子とパリにて交流を持つ。武林と文子の娘イヴォンヌ(1921年生)は知人のフランス人夫婦に預けられて南仏で育ったが、十代半ばに自殺未遂を繰り返したことから日本に帰国させ、後に辻まことの最初の妻となった。イヴォンヌは辻との間に野生(のぶ、1940年生)と維生(いぶ、1944年生)という二人の娘をもうけたが、辻と離婚し、のちに新聞記者と再婚、母・文子が暮らすベルギーに移ったが再び離婚し、母の仕事を手伝う中、45歳で急死した。イヴォンヌの娘・野生は2歳で竹久夢二の次男・不二彦夫婦の養女となって北海道で育ち、造園家と結婚、夫の仕事の関係でコロンビアに移り、コロンビア国立大学芸術学部美術科で絵を学んで画家となり、ボゴタ在住。その妹の維生は実父である辻の異父妹・菅沼幸子(大杉栄と伊藤野枝の次女で旧名エマ、菅沼五郎妻)の養女となったが、8歳で実母に伴いベルギーに移り、のち宝塚歌劇団に入った。無想庵は第二次世界大戦後、一時共産党員であった。