【古写真関連資料】市田幸四郎 と、大日本印刷(市田印刷合名会社)

大日本印刷明治期

市田幸四郎
明治 43 年、市田印刷合名会社を設立し、凸版印刷の関西代理店となる。 大正 2 年、市田左右太(2 代目)は印刷事業の拡張に消極的であったこともあり、市田幸四郎が自動オフ セット枚葉輪転印刷機を独断で発注したことで、市田家から除籍(分家)となる。 大正中期、輪転機を用いたオフセット印刷を日本に導入。 のちに市田印刷は日清印刷に吸収され、日清印刷は大日本印刷に合流した。 昭和 2 年、死去。

◆大日本印刷
世界最大規模の総合印刷会社。東京証券取引所一部上場。

コンセプトワードは、「P&IソリューションDNP」。
前身は1876年(明治9年)10月9日に創立した秀英舎である。1935年(昭和10年)2月26日に日清印刷と合併し、大日本印刷となった。その後も日本精版(現:大阪工場)、弘益印刷(現・DNP中部)、北日本印刷(現・DNP北海道)などと合併して全国規模に拡大した。

秀英舎は佐久間貞一を中心に宏仏海、大内青巒、保田久成が共同出資して、活版での印刷会社として東京京橋の弥左衛門町に創立した。社名の名付け親は勝海舟で、「英国よりもすぐれた技術を身につけよ」との思いから命名された。佐久間が大教院の教会新聞発行を引継ぎ、その印刷のために活版所を買い取ったのが由来である。秀英舎は主に新聞印刷や、中村正直の「西国立志編」の活版による再版などに代表する書物の印刷会社として発展した。

その頃活字の供給は印刷局と築地活版のみが行っており、創立当初は活字を購入していたが、1881年(明治14年)、保田の創案のもと、字母(父型)を購入し活字の自家鋳造を開始、更に1882年(明治15年)、山下町に製文堂を設置、それを本格化させた。築地活版や印刷局の書体を受け継ぐ五号系統と、筆跡新しい初号系統の2書体はここで形成された。明治30年代半ばのことである。後に秀英体(秀英型とも。特に初号系統をいう)と呼ばれた書体群で、活版印刷減衰の後も、写植書体やディジタル・タイプとして覆刻され、また、大日本印刷の書体としてポイント制活字、ベントン母型を経ながらも使用され続けている。

日清印刷は東京専門学校(後の早稲田大学)の印刷所として創立した。しかし、一般の印刷も引き受けるようになり、1907年(明治40年)に会社組織をつくり、工場も設置したのである。創立に関わったのは高田早苗らであった。1913年(大正2年)のオフセット印刷など、積極的な技術開発も試みた。

1876年(明治9年) – 前身の秀英舎が創立
1886年(明治19年) – 市ヶ谷に約 5,000 坪の土地を入手し工場建設(新宿区における印刷工場の先駆け)
1907年(明治40年) – 高田早苗が榎町の 500 坪の敷地に早稲田大学出版部用の印刷工場「日清印刷」設立。秀英舎の技術者がかなり入って同社を盛り立てた。
1935年(昭和10年) – 秀英舎と日清印刷が合併、社名を大日本印刷へ変更。

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