【古写真関連資料】オリエンタル写真工業と、明治の写真師たち

オリエンタル写真工業
菊池 東陽は、菊池新学の孫。菊池宥清の子。三男。本名は菊池学治。東陽は号。 明治 31 年、東京銀座の写真館で技術を習い、日本各地で修業。 明治 34 年、家業の写真館を継いだ。 明治 37 年、渡米。 大正 7 年、感光性乳剤の製造に成功。 大正 8 年、帰国して植村澄三郎の協力により、オリエンタル写真工業(現・サイバーグラフィックス) を創立し、取締役技師長となる。 大正 10 年、人像用印画紙の国産に成功。「オリエント」と名づけて販売。 昭和 4 年、社長となり、印画紙、乾板、フィルムの 3 本建て製造販売態勢を確立。

小池 敦隆は、明治 39 年、写真研究のため渡米。 サンフランシスコ、カンザスで学んだ後、テネシー州写真大学に学ぶ。 卒業後はシカゴを経て、ニューヨーク 5 番街で菊池東陽が経営する写真館に入る。 大正 3 年、帰国し、小池兵治の跡を継ぐ。 大正 8 年、菊池東陽のオリエンタル写真館を継承し、小池写真館に改称して経営に当たった。

中鉢 直綱は、昭和16年、オリエンタル写真工業の取締役に名がある。

小川一真は、当時の撮影機材や写真感光材料が外国製だったことに不満を持っていた一真は1907年、感光剤である写真乾板の国産化をめざす「日本乾板株式会社」を同業者と設立、旧大野村の南原に工場を構えた。
日本乾板は、花水川に面した約1万5千坪の土地に生産拠点を置いた。当時は良質な国産ガラス板が希少だったため、使用済みの乾板を洗浄し、その上に感光剤を塗布する製法を研究、試行錯誤を重ねて製品化した。
 経営不振となった同社が解散した後も、一真は南原で研究所を開設し、国産化の夢を追い続けた。その後に工場はオリエンタル写真工業に譲渡された。

渋沢栄一の家の写真師であった五十嵐与七江木写真店)も取締役として、経営に参加している。

◆オリエンタル写真工業

サイバーグラフィックス株式会社は、写真フィルム・印画紙等の感光材料の製造および輸入販売を行なう日本の企業である。1919年(大正8年)、オリエンタル写真工業株式会社(オリエンタルしゃしんこうぎょう-)として創立、2000年(平成12年)に現社名に変更した。1997年(平成9年) – 2003年(平成15年)の間、プラザクリエイトの子会社であった。

2003年(平成15年)にMBOにより再独立、「オリエンタル」は現在も同社のブランド名であり登録商標である。イルフォード・フォト製品、ケントメア・フォトグラフィック製品等の日本での総代理店である。

日本での写真の歴史は、明治時代から感光材料を輸入に依存しており、この国産化を志した菊池東陽が、1904年(明治37年)にアメリカ合衆国に渡り、1918年(大正7年)、長年の研究の結果、感光乳剤の製法を完成して帰国したところから、同社の歴史は始まる。

翌1919年(大正8年)9月、菊池は、実業家渋沢栄一に紹介された大日本麦酒常務取締役の植村澄三郎を会長に据え、オリエンタル写真工業を設立、取締役技師長に就任する。所在地は、東京府豊多摩郡落合村字葛ヶ谷660(現在の東京都新宿区西落合2-18)。資本金60万円、創業当時は取締役、事務営業系社員、職工あわせて25人程度、工場は300坪で、印画紙製造から始めた。

1924年(大正13年)には、同社企画宣伝課内にフォトタイムス社を設置、前年に入社した木村専一を編集長に、写真雑誌『フォトタイムス』を創刊し、写真についての啓蒙を推進する。1929年(昭和4年)には、菊地が同社取締役社長に就任、オリエンタル写真学校を開設、写真家や技術者の育成を行なった。同校は、映画監督の木下恵介(1930年入学)、写真家の植田正治(1932年入学)、同じく写真家の林忠彦(1938年入学)らを輩出した。1932年(昭和7年)には、工場敷地内に オリエンタル映画社を設立してトーキー用の撮影所を設置、日本のウェスタン式トーキー第一作『浪子』を製作、パラマウント映画日本支社)が配給して東京の帝国劇場等で公開したが、同映画社は同作一作のみで閉じられた。

1939年(昭和14年)4月5日、社長の菊地が死去した。1940年(昭和15年)12月号をもって『フォトタイムス』が休刊、太平洋戦争の戦時体制となる翌年1941年(昭和16年)1月に創刊された『報道写真』に統合され、1945年(昭和20年)5月の空襲で工場と写真学校を焼失、学校は廃校とならざるを得なかった。

太平洋戦争の終結後は、1949年(昭和24年)5月16日に東京証券取引所一部に上場、日本最初のカラーネガティヴフィルム「オリカラー」および「オリエンタルカラーペーパー」を発売している。1963年(昭和38年)10月1日には、東京証券取引所一部から二部上場に変更している。1983年(昭和59年)10月には新工場を静岡県御殿場市に竣工、西落合を撤収し移転、また同じころに神奈川県平塚市に合理化工場を竣工している。

1995年(平成7年)8月15日、会社更生法適用を申請し、東京証券取引所二部を上場廃止に至り、2年後の1997年(平成9年)には、子会社の「オリエンタル写真商事」「株式会社オリエンタルカラー」とともにプラザクリエイトに買収された。

プラザクリエイト傘下の企業だった2000年(平成12年)には、 サイバーグラフィックス株式会社と社名変更したが、2003年(平成15年)その社名のまま、同社取締役が株式を買収してプラザクリエイトから経営を分離し(MBO, マネジメント・バイアウト)、再独立を果たした。平塚工場(サイバーグラフィックス平塚事業所、平塚市南原1-24-40)はプラザクリエイトに譲渡し、のちに売却され、跡地にはヨークマート平塚南原店が2012年(平成24年)5月3日オープンする。

ひきつづき「オリエンタル」ブランドの印画紙や現像薬品、イルフォードをMBOすることによって設立されたハーマン・テクノロジーが製造販売を行なうイルフォード・フォト製品、ハーマンのインクジェット紙、ケントメア・フォトグラフィック製品、パターソン写真用品等の日本国内の総代理店として営業を行なっている。

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