【古写真関連資料】多くの写真師に影響を及ぼした、大正12年・関東大震災

関東大震災

金巻 章
関東大震災により「淑女画報」が廃刊した後も、写真部員として引き続き博文館に勤務。

筒井 ハナ
写真館は繁盛していたが、大正12年、関東大震災で行方不明となった。

玉村 騎兵衛
大正 12 年、関東大震災の後、大阪に移住。

江南 信国
関東大震災の際に、火災によってスタジオを焼失したが、後にはスタジオを再建した。

江崎 清
浅草で開業し、関東大震災後は銀座に写場を移転。

岩橋 教章
岩橋教章の油彩画は関東大震災で失われ現存しないとされている。 地図と書籍は現存するが、版画作品は現存していない。ウィーン帰国後の絵画作品は三重県立美術館所蔵 「鴨の静物」1 点のみ確認されている。

小坂 一郎
大正 12 年、単身上京し、東京帝国大学専属写真技師の伯父・樫孝吉に入門する。 数日後に関東大震災に遭遇。復興後、伯父を補佐しながら、写真技術を学ぶ。

◆関東大震災

1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒ごろに発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。神奈川県および東京府(現:東京都)を中心に隣接する茨城県・千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらした。

一般に大震災と呼ばれる災害ではそれぞれ死因に特徴があり、本震災では焼死が多かった。また阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)では圧死、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では溺死が多い。本震災において焼死が多かったのは、日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹き込み、木造住宅が密集していた当時の東京市(東京15区)などで火災が広範囲に発生したためである。

この災害は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災以前の日本においては、史上最大規模の被害をもたらした。府県をまたいだ広範囲にわたる災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、政府機関が集中する東京を直撃して国家機能が麻痺したことから、政府も大規模な対応に追われた。しかし、内閣総理大臣の加藤友三郎が震災発生8日前の8月24日に急死していたため、外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣を臨時兼任して職務執行内閣を続け、発災翌日の9月2日に山本権兵衛が新総理に就任(大命降下は8月28日)、9月27日に帝都復興院(総裁:内務大臣の後藤新平が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。

金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は、火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。モルガン商会は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものだった。引受にはロスチャイルドも参加した。金策には森賢吾が極秘で奔走した。

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日英同盟のころから政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債・社債両面での対外債務を急増させた。また震災不況から昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月~)、1930年(昭和5年)に行われた金解禁は世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出(再)禁止になった。

この震災により東京市・横浜市から東京府下や埼玉県などの郊外に移り住む者も多く、「天災によるドーナツ化現象」が発生した(参照)。また、大阪府や愛知県など、のちに三大都市圏となる地域に移住する者も多くみられ、特に1925年に近隣の郡部を編入した大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。阪神間では阪神間モダニズム後期の大大阪時代を迎え、六大都市の序列に影響を与えた。また東京市電の機能不全を肩代わりさせるため、東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始(円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まり、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した。電話の自動交換機も普及した。