
下宿先が(後に日本写真界の開祖となる)上野彦馬宅であった 。
◆長崎留学までの長井長義
日本の薬学者。号:朴堂。
エフェドリンの発見者。日本薬学会初代会頭で、日本の近代薬学の開祖である。
阿波国名東郡常三島村薙刀丁出身(現在の徳島県徳島市中常三島町2丁目)。
明治時代における日本薬学の進展に寄与した。
漢方薬の研究と成分抽出は特筆すべき業績である。マオウ属(麻黄)からのエフェドリン抽出に成功し、のちに大量合成が可能であることを証明した。これは、多くの喘息患者の苦痛を取り除くことになった。エフェドリンは、現在でも誘導体 dl-塩酸メチルエフェドリンという成分名で、気管支拡張剤として市販の感冒薬(風邪薬)にも配合されている。
日本薬学会の初代会頭に推挙され就任し、終身、心血を注いだ。また、東京帝国大学(現東京大学)医学部薬学科教授、大日本製薬合資会社(半官半民、後の大日本製薬株式会社、現在の大日本住友製薬株式会社)技師長を務めるなど、日本の薬学・化学の先駆者の一人である。日本薬局方の整備にも尽力し、それまで「質が悪い」と敬遠されてきた、日本製医薬品の大幅な品質向上に寄与した。さらに、日本各地の薬剤師に直接指導も行った。医薬分業と薬専(薬学専門学校)の官立化にも大きく貢献した。日本薬学の父たるゆえんである。

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自身の研究だけでなく、テレーゼ夫人とともに女子教育にも力を入れた。日本女子大学や雙葉会・雙葉学園への設立協力と化学教育の推進など、女子教育の向上にも貢献した。
日独協会の理事長、教学研鑽和仏協会の委員を務めるなど、明治時代における日本社会の国際化に大きく貢献した。また、第一次世界大戦後のハイパーインフレーションにより危機に陥ったドイツ薬業界の救済のために義捐金を募り、200マルク(当時)を贈った。1845年7月24日、阿波国名東郡常三島村に、長井琳章と田鶴子の長子として生まれた。初名直安、幼名長吉。
長井家は代々、阿波徳島藩の初代藩主からの典医として信頼が篤く、父の長井琳章は第十二代藩主・蜂須賀斉昌に仕えた本草学者だった。妻・田鶴子が25歳で早逝したため、琳章は医師としての自責の念から、ますます医薬に没頭した。このような事情から、琳章は長義を医師とするべく、小さい頃からあらゆる知識を教え込んだ。漢学塾と蘭学塾にも通わせている。第十三代藩主・蜂須賀斉裕の小姓として父と一緒に登城する道すがら、琳章は薬草となる草木を見つけ出して長義に効能などを教えていた。
1866年(慶応2年)11月、徳島藩主斉裕は、22歳の長井に長崎留学を命じた。鎖国のなか、外国の知識を本格的に学ぶには、長崎に留学するほかなかった。また、海外に留学するにも、まずは長崎に留学するという風潮となっていた。精得館に入学し、西洋医学をマンスフェルト(C.G. van Mansvelt)から、化学をボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin)から学んだ。
医学を漢方で学んできた長井だが、下宿先が(後に日本写真界の開祖となる)上野彦馬宅であったことも大きく影響し、化学に惹かれるようになった。本来はハラタマ(Koenraad Wolter Gratama)のもとで学ぶ予定だったが、ちょうどハラタマが江戸に移っていたため、上野宅で化学実験を勉強することとなったのだが、このことは後にドイツで非常に役に立つこととなる。写真は当時最先端の技術であり、上野宅には名士が集まっていた。ここで長井は坂本龍馬、大久保利通、伊藤博文の熱弁に触れている。