【古写真関連資料】写真師・柴田常吉と、日本映画のはじまり

【古写真関連資料】日本映画のはじまり

1898年には先に挙げた『化け地蔵』『死人の蘇生』が、翌1899年には『芸者の手踊り』(東京歌舞伎座)が、小西本店の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。

現存する最も古い日本映画としては同年柴田常吉によって撮影された『紅葉狩』がある。

◆日本映画のはじまり

一般的に日本国内の映画館などで公開されることを前提として、日本国籍を持つ者、あるいは日本の国内法に基づく法人が出資(製作)している映画を指すが、詳細な定義は識者によって異なる。邦画(ほうが)とも呼称される。また、時代によって活動写真、キネマ、シネマ等とも呼ばれる。

トーマス・エジソンによって1891年に発明されたキネトスコープが世界的な映画の起源となるが、それを用いて日本で最初に上映がなされたのは1896年11月で、当時の西洋技術の最先端である映画が到来した年にあたる。日本人による映画撮影としては1898年の浅野四郎による短編映画『化け地蔵』『死人の蘇生』に始まる。ここから現代に至るまで日本映画は日本文化の影響を強く受けつつ、独自の発展を遂げ、日本を代表する大衆娯楽のひとつとして位置付けられていった。

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日本映画をジャンルとして明確に定義することは困難であり、「日本人監督によって、日本人の俳優を用いて、日本で撮影し、日本で上映する日本語の映画」という条件のもと、そのいくつかが当てはまるものを一般に日本映画と呼称している。このため、『ホノカアボーイ』などの総海外ロケの映画や、フランスの資本を基に黒澤明や大島渚が撮影した映画、崔洋一、李相日などの在日韓国・朝鮮人監督による映画など、全ての条件を満たしていなくても日本映画と認知されるものもある。

外国映画(洋画)に対する日本の映画という意味での呼称は存在するが、市場のボーダレス化等、製作、配給の両面において多国籍化が一般化している今日において、ジャンルとしての厳密な定義はほぼ無意味なものとなりつつある。

日本映画が日本映画たりえた背景には当然日本文化の影響が存在している。映画が日本に到来する時代、日本は世界でも稀な高い識字率を誇っており、大衆的な読み物から新聞、児童書などあらゆる書物が庶民に親しまれていた。また、映画よりはるかに長い歴史を持つ歌舞伎や人形浄瑠璃などの伝統演劇が日本映画に与えた影響も計り知れない。これは今日でも映画館を劇場と呼称したりすることからも伺える。

また、初期の無声映画時代、上映にあたり、弁士と呼ばれるフィルムの説明者が存在したが、映像と分離した音声を享受するというシステム、口踊芸と呼ばれる洗練された語りの手法は、既に人形浄瑠璃をはじめとする演劇で確立されており、日本人にすんなりと受け入れられ、独自の発展を遂げたとされる。庶民にとって誰が弁士を務めるかも映画鑑賞の重要な判断基準となり、花形の弁士が演じる映画は総じて人気を博した。無声映画とは声の無い映像のみの映画を指すが、日本映画においては真の意味での無声映画は存在していなかったと言って良い。

純粋に日本文化を映画へ昇華し、日本映画らしさを出そうとする一方で、国外の文化や素材を日本風に咀嚼し、混交するという日本映画も多数誕生している。ジャック・フェデーの『ミモザ館』から着想を得た山中貞雄の『人情紙風船』やウィリアム・シェイクスピアの『リア王』が原作とされる黒澤明の『乱』などがそれにあたる。

日本における初の映画上映は、鉄砲商人であった高橋信治によって1896年11月、神戸の神港倶楽部に始まった。これはトーマス・エジソンのキネトスコープによるものである。リュミエール兄弟のシネマトグラフによるスクリーン上映は1897年1月に稲畑勝太郎によって京都電燈株式会社の当時の本社(現在の元・立誠小学校の敷地)の中庭にて初めて行われた。続いて1897年2月に初めての「有料上映」が稲畑勝太郎によって大阪にて行われた。同年3月には東京でキネトスコープを改良したヴァイタスコープが公開され、人気を博した。谷崎潤一郎は自著『幼少時代』において「一巻のフィルムの両端をつなぎ合わせ、同じ場面を何回も繰り返し映せるもの」と評している。

その後浅野四郎によっていくつかの短編映画が撮られ、1898年、日本で初めて映画が撮影された。

1898年には先に挙げた『化け地蔵』『死人の蘇生』が、翌1899年には『芸者の手踊り』(東京歌舞伎座)が公開された。これは小西本店(後の小西六写真工業、現コニカミノルタ)の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。同年には1巻70フィートの日本最初の劇映画となる『ピストル強盗清水定吉』が駒田好洋によって撮影され、日本初の映画俳優として新派の横山運平が起用された。積極的に映画と接触しようとした新派とは異なり歌舞伎などは映画を「泥芝居」と蔑み、原作や役者の提供に躊躇する時代であった。現存する最も古い日本映画としては同年柴田常吉によって撮影された『紅葉狩』がある。

1903年には吉沢商店が浅草に日本で最初となる映画専門館「電気館」を設置した。翌1904年に日露戦争が勃発すると実写撮影班を現地中国大陸に派遣し、その映像をドキュメンタリー映画として上映し、人気を博した。