【古写真の調査後売却】諏訪忠誠 継々室 瓊芳院(鶏卵紙、手札名刺サイズ)

諏訪忠誠 継々室 瓊芳院

◆諏訪忠誠 継々室 瓊芳院
朽木綱条の娘で、諏訪忠誠の側室となり、直姫(諏訪忠礼正室)、娘(鳥居成善室)、晴子(諏訪忠元正室)を生んでいる。
本姓は諏訪神党の鮎澤氏。

◆諏訪忠誠
江戸時代末期の譜代大名、老中。信濃諏訪藩第9代藩主。 文政4年(1821年)、諏訪忠恕の長男に生まれる。天保11年(1840年)、父の隠居に伴い家督を相続した。外祖父の松平定信は忠誠の人となりを見て、将来有望であると太鼓判を押した。その予想通り万延元年(1860年)若年寄、文久2年(1862年)寺社奉行、元治元年(1864年)には老中に就任する。 同年、武田耕雲斎率いる水戸天狗党(総勢1000人の浪士)は京を目指し、10月20日には諏訪藩領内の和田峠を越えようとさしかかった。幕府は高島藩と隣の松本藩に出兵を命じ、諏訪・松本両藩2000人は和田峠で迎撃をしたが、藩兵は6名の犠牲者を出し、突破されている。 一方、幕府では若年寄、寺社奉行、老中と昇格したが、老中在任中の慶応元年(1865年)、将軍・徳川家茂が長州征討のため出陣するのに強く反対し、同じ立場だった長岡藩主の牧野忠恭とともに老中職を罷免された。 慶応4年(1868年)5月24日に隠居し、養嗣子とした甥の忠礼に家督を譲った。明治4年(1871年)4月、東京に移住した。明治11年(1878年)10月、忠礼の死去により家督を再び相続した。明治17年(1884年)7月、子爵を授かる。明治31年(1898年)に死去した。家督は娘婿の忠元(溝口直溥の十四男)が継いだ。正室:侃(貞鏡院、松平乗寛の娘)、継室:達(松平康任の娘)に子供はできなかった。

◆諏訪神党
(すわしんとう)は、諏訪氏を中核として諏訪明神の氏人によって鎌倉時代に形成された武士団。神党に属する一族は「神」を本姓とする神氏を称した。また、通称に「神」を加えて(神左衛門など)諏訪神党であることを示す。 誕生期については諸説あるが、概ね鎌倉時代に諏訪氏を中核として、諏訪明神の氏人である諸族が同族的な結束力を持った集団を形成したとされる。 鎌倉時代の信濃武士は、治承・寿永の乱で木曾義仲に味方した者が多く、鎌倉幕府の御家人としては冷遇されることが多かった。比企能員の変後に北条義時が信濃国守護になると、諏訪氏は執権家北条氏の有力な御内人となり、将軍から執権へと実権が移る得宗専制の中で、その地位を高めていくことになる。 鎌倉時代中期には、諏訪神党であることを示す「神」の姓(「シン」または「ミワ」と読む)が史料に登場するようになる。室町時代初期には、幕府奉行を務めた京都諏訪氏により「前田本 神氏系図」という神氏の系譜も登場する。ただし、公的な文書では神氏は認められておらず、諏訪氏も除目などの本姓は「金刺」と記されている。 諏訪神党は諏訪明神の氏人であることが条件とされ、諏訪一族以外にも大族滋野氏三家の根津氏を始めとする諸族が多く含まれており、越後との国境に近い奥信濃志久見郷の市河氏も神氏を名乗った記録が残されている(諏訪氏と婚姻関係を結んでいる氏族が大半を占めるが、明確な婚姻関係が確認できない氏族もあり、必須条件ではないとする説もある)。 諏訪神党の多くは鎌倉幕府が終焉を迎えた後も北条氏への恩顧を残しており、北条時行を擁した中先代の乱では中核となって挙兵する。その後も北条残党として、また南北朝の騒乱期には南朝方として、小笠原氏や村上氏などの北朝方と戦っている。 1355年(文和4年/正平10年)、宗良親王を擁した桔梗ヶ原の戦いで信濃守護小笠原長基に敗れて以降は、信濃の南朝方勢力の衰退は決定的となり、盟主である諏訪氏の内紛もあって諏訪神党の各家も結束力を失っていったとされる。

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◆朽木 綱条
(くつき つなえだ)は、丹波福知山藩の第11代藩主。福知山藩朽木家12代。諱は綱條とも記される。享和元年(1801年)10月17日、第9代藩主朽木倫綱の長男として生まれる。文化7年(1810年)6月19日、第10代藩主綱方の養子となる。佐藤一斎の師事を受けるなど、早くから聡明だったといわれる。文化14年4月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下隠岐守に叙任する。文政3年(1820年)6月6日、綱方の隠居により家督を継いだ。 文政6年(1823年)2月2日、大坂加番を命じられる。文政11年(1828年)9月1日、奏者番に就任する。要職を歴任して将来は老中にも期待されたが、これが出費を招き、さらに領内も凶作が相次いで財政に苦しんだといわれる。天保7年(1836年)5月28日に養父に先立って死去した。享年36。跡を養子の綱張が継いだ。