
◆ 飯沼 慾斎
文化 3 年、蘭方医・宇田川榛斎(宇田川玄真)に入門し蘭学を修める。
◆ 工藤 孝
祖父と思われる工藤謙同は、杵築蕃の蘭方外科医・工藤蓬斎の次男。豊後出身。 文政 4 年、長崎のシーボルトによりオランダ医学を学び、のち江戸の宇田川玄真に入門。
◆ 宇田川 興斎
父は美濃大垣藩医・飯沼慾斎。三男。 宇田川家は蘭学の名門として知られる。 天保 5 年頃、江戸詰めの大垣藩医の家から、師匠筋の宇田川家(津山藩医で蘭学者・宇田川榕菴)へ養子 に出され津山藩医となる。
◆ 宇田川 準一
津山藩医・宇田川興斎の長男。 祖父・飯沼慾斎、父・興斎と同様に、写真術の研究も行い、「脱影奇観和解」を翻訳・出版。 文久元年、蘭学者・坪井信良に医学、蘭学をまなぶ。 儒学者・昌谷精渓・ 昌谷千里には漢学を、川本幸民に洋学を学んだとされる。
◆ 宇田川 忠義
中島 待乳 の門人に名がある。
◆宇田川 榕菴
名は榕、緑舫とも号した。宇田川榕庵とも表記される。それまで日本になかった植物学、化学等を初めて書物にして紹介した人物である。元服前の14歳の時、江戸詰めの大垣藩医の家から養子に出され藩医となる。
宇田川家は蘭学の名門として知られ、養父である宇田川玄真、また玄真の養父である宇田川玄随、榕菴の養子である宇田川興斎も蘭学者、洋学者として知られる。
大垣藩(現在の岐阜県大垣市)の江戸詰め医、江沢養樹の長男。父の師匠である藩医宇田川玄真に才を見出され玄真の養子となり、養父・玄真に学び玄真とともに幕府に重用された。
1826年、天文方蕃書和解御用の翻訳員となり、ショメール百科事典の翻訳書『厚生新編』の作成に従事したとされる。
父子の逸話として、慕っていた養父・玄真の養生のために、榕菴は温泉の効能(泉質)を調べており、これが日本で初めて行われた温泉の泉質調査であったといわれている。
シーボルトとも親交があったことでも知られる。

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墓所は泰安寺。歴代の宇田川家の人々とともに眠る。
1837年(天保8年)から死後の1847年(弘化4年)にかけて日本ではじめての近代化学を紹介する書となる『舎密開宗』を出版した。
舎密開宗の原著はイギリスの化学者ウィリアム・ヘンリーが1799年に出版した Elements of Experimental Chemistry をJ・B・トロムスドルフ(de:Johann Bartholomäus Trommsdorff)がドイツ語に翻訳、増補した Chemie für Dilettanten を、さらにオランダの Adolf IJpeij がオランダ語に翻訳、増補した Leidraad der Chemie voor Beginnennde Liefhebbers, 1803(『依氏舎密』)である。
しかし、単なる翻訳ではなく Adolf Ijpeij による Sijstematisch handboek der beschouwende en werkdaadig Scheikunde(『依氏広義』)、スモーレンブルグ(F. van Catz. Smallenburg)のLeerboek der Scheikunde(『蘇氏舎密』)などの他の多くのオランダ語の化学書から新しい知見の増補や、宇田川榕菴自身が実際に実験した結果からの考察などが追記されている。