
金丸原三の表記もある。甲斐国生まれ。代々武田家家臣・土屋氏の家来の家柄という。本姓は高橋。島霞谷に写真術を学ぶ。 明治初年、東京浅草厩橋で開業。 勝海舟や山岡鉄舟、山内容堂、吉原芸妓・今紫、人気役者・沢村田之助などの肖像を撮った。日光風景を撮影して鶏卵紙に焼付け、海外へも輸出された。 明治元年、玉村康三郎が写真術を学んでいる。 息子に金丸亦四郎 。妻の金丸せい(金丸せ以)も写真師として同地で活動している。
甲斐の金丸氏の祖は甲斐武田氏14代・武田信重の子・武田光重が、途絶えていた鞠部氏の一族・金丸氏の名跡を復興させ金丸右衛門尉光重と称したのが始まりで、 甲斐国志には、長盛院(曹洞宗)の境内が土屋昌続の実家・金丸氏の「数代ノ居址ナリ」と記載されている。現在も山梨県南アルプス市徳永に金丸氏館跡が残っている。 金丸光重に実子はなく、養子の一色伊賀守藤次(光信、秋山伊豆守藤次)に継がせ、藤次の子は金丸若狭守虎嗣、虎嗣の子は金丸筑前守虎義(武田信虎に仕えていた)と続く。 その後、長男・金丸平三郎昌直(奥近習六人衆のひとり)~金丸定政~金丸成政~金丸平八郎昌次(譜代家老衆)と続く。金丸平八郎昌次が、土屋昌遠の跡を継いで土屋昌続(土屋右衛門昌続) となった。 土屋昌続の子に長男・金丸信尚(土屋信尚)、次男・金丸重卿(依田重卿)、3男・金丸左衛門佐昌詮(秋山信友の跡を継いで秋山昌詮となる)、4男・金丸道助昌義、5男・金丸助六郎定光、6男・金丸惣三昌忠、 7男・金丸惣八郎正直、8男・金丸源三親久(秋山親久として秋山氏を継ぐが武田勝頼とともに天目山田野で死去)、9男・金丸惣蔵昌恒(岡部長宗を嗣いだのち、兄・金丸昌次(土屋昌次)のあとを継いで土屋昌恒(土屋右衛門昌恒)となる)、10男・金丸景氏(秋山景氏)などがいる。このうちいずれかが、写真師金丸源三の家系と思われる。
生年/出身: 1832 山梨(甲斐国)
開業年: 1868
開業地、主要拠点: 東京(浅草厩橋)
師匠: 島 霞谷