【古写真関連資料】明治35年から鉄道写真を撮影した、写真師小川一真と、実業家・岩崎輝弥(岩崎・渡邊コレクション)

【古写真関連資料】明治35年から鉄道写真を撮影した、写真師小川一真と、実業家・岩崎輝弥(岩崎・渡邊コレクション)

小川一真
武蔵国忍藩藩士・原田庄左衛門の次男として生まれる。 写真技術者・印刷技術者の小林忠治郎(旧姓・原田徳三郎)は実弟。 忍藩・培根堂で学んでいる。文久3年、武蔵国行田藩士・小川石太郎の養子となる。この頃から小川一眞と名乗っている。明治 6 年、藩主・松平忠敬の給費で東京の有馬学校に入り土木工学と英語学を修める。 この頃、写真術に興味を持ったという。 明治8年、有馬学校を卒業して帰郷。明治8年、熊谷の写真師・吉原秀雄の下で働きながら写真湿板撮影法を学ぶ。明治8年(10年とも)、上州富岡町で「小川写真館」開業。この頃、古沢福吉(富岡町初代郵便局長)と親交があり支援を受けている。明治13年、築地のバラー学校へ入学し、英語を習得。明治14年、横浜の外国人居留地で警察の通詞を勤める。明治14年、富岡町の写真館を閉じ、横浜の下岡太郎次郎下岡蓮杖の弟子で養子)に写真術を学んでいる。

明治14年、第2回内国勧業博覧会に出品したが評価されなかったという。
明治15年、横浜居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ軍艦に乗船し、単身渡米。旧岸和田藩主・岡部長職の知遇もあったと伝わる。最新の写真術を会得するべくアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンのハウスティング写真館に住み込みで働く。また、欧州の最新写真技術やコロタイプ印刷などを体得している。明治17年(18年とも)帰国。明治 18 年、東京府麹町区飯田町四丁目一番地に「玉潤会(玉潤館)」を設立。カーボン印画法の材料を販売する会社も起こしている。 明治 19 年頃、中西應策が門人となっている。 明治 20 年、内務省の委嘱で皆既日食のコロナ撮影を行う。 明治 21 年、枢密院顧問官で男爵、図書頭の九鬼隆一による近畿地方の古美術文化財調査に同行。 奈良の文化財の調査撮影を行った。 のち岡倉天心らと国華社を設立。 明治 22 年、日本初のコロタイプ印刷工場「小川写真製版所」を京橋区日吉町に設立。また、コロタイプ印刷による図版入りの美術雑誌『国華』を創刊。 明治 24 年、光村利藻は、小川一真に伝授料 200 円を支払って最新のコロタイプ印刷をマスターし、光村印刷(東証 1 部上場)の基礎を築いた。 明治24年、浅草凌雲閣が開催した「百美人」コンテストを撮影。明治 26 年、シカゴ万国博覧会にあわせて開かれた万国写真公会に商議員として参加し、渡米。 網目版印刷の存在を知り、アメリカで印刷機械や器具、印刷材料一式を購入して帰国。 明治 27 年、網目版印刷業を開始。 日清戦争で東京朝日新聞の附録や博文館発行の『日清戦争実記』などの写真図版を手がけ、日露戦争で『日 露戦役写真帖』など数多くの写真帖を出版。明治35年から明治40年にかけて、渡邊銀行創立者の一族・渡邊四郎、実業家の岩崎輝弥(岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助の子)は、小川一真に依頼して北海道から九州まで、全国各地で多くの鉄道写真を撮影した。これらの写真は現在、さいたま市にある鉄道博物館に所蔵された。明治 36 年、板垣退助の三女、 板垣婉(えん)と結婚。(二人の妻に先立たれており、3人目の妻) 明治 39 年、勲五等双光旭日章を受章。明治 43 年、写真師として初の帝室技芸員を拝命。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、写真文化に大きな業績を残した。東京芝白金の前島英男(丸木利陽門下)とともに宮内省写真部を設立。大正2年、小川写真化学研究所を創設。大正4年、神奈川県平塚市で死去。従六位。

◆岩崎 輝弥(岩崎 輝彌)
日本の実業家で、日本における鉄道趣味の先駆者である。岩崎弥之助・早苗夫妻の三男として東京府(現・東京都)に生まれる。1899年に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1905年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。東京帝国大学農科大学実科(現・東京農工大学農学部)を卒業。三菱の創業者一族・岩崎家に生まれたこともあって大学卒業後は実業界に進んだ。輝弥は実業家としては酪農業に従事しており、立川養豚場や吉屋信子の代表作『安宅家の人々』のモデルとなったことで知られる子安農園を経営したことで知られている。だが輝弥は父・弥之助(三菱財閥の2代目総帥)や長兄・小弥太(三菱財閥の4代目総帥)、次兄・俊弥(旭硝子の創業者)のような実業家としての大きな業績はなく、専ら鉄道ファンとしてその名を知られている。

1902年から1907年にかけて渡邊銀行創立者の一族・渡邊四郎とともに写真家・小川一真に依頼して北海道から九州まで、全国各地で多くの鉄道写真を撮影した。輝弥と渡邉が小川に依頼して撮影した写真は蒸気機関車を中心に客車、駅舎、隧道、橋梁等多岐にわたる。岩崎・渡邊の両名の指示に従い小川とその門下の写真師たちが撮影したこれらの写真は、その撮影期間がわずか5年と短期間に限られているが、その大半が組み立て暗箱によってガラス乾板に撮影されており、その精細さと鮮明さ、被写体の特徴をよく捉えたカメラアングルの的確さ、それに体系だった被写体選択、同時代に撮影された鉄道写真としては類を見ない突出したクオリティを備えていることで知られ、これらの写真にのみ記録されている車両も少なくない。これらの写真は昭和の初めに渡邉家の遺族より、また1940年に輝弥自身の申し出により、いずれも東京・万世橋の鉄道博物館(後の交通博物館)に寄贈された。同博物館でのこれらの写真群の公開は臼井茂信をはじめとする当時の鉄道趣味者らによる写真撮影スタイルに重大な影響を及ぼし、またその撮影時期と撮影地点がほぼ特定可能であることから、これらは以後の日本における明治期鉄道研究の重要な基準史料となっている。これらの膨大な写真群は、「岩崎・渡邊コレクション」として埼玉県さいたま市にある鉄道博物館に所蔵されていた。輝弥は鉄道を職業とは異なるレベルで探求しており、日本の鉄道ファンの先駆者であるといえる。また、輝弥の業績も大半が鉄道趣味に関するもの、それも鉄道撮影に関するものであり、今日の鉄道ファンの分類では「撮り鉄」に該当する。

父・弥之助は三菱の2代目総帥、母・早苗は政治家・後藤象二郎の長女。妻・須美は初代東京物理学講習所所長の櫻井房記の次女なので造船学者・櫻井省三と化学者・櫻井錠二は輝弥にとって義理の叔父にあたる。義兄には実業家で三菱重工業社長を務めた櫻井俊記(房記の長男)と建築家で三菱地所社長を務めた藤村朗(妻は櫻井房記の長女・貴美)がいる。輝弥・須美夫妻は2男2女をもうけた。ドイツ語学者の岩崎英二郎は輝弥の次男で、長女は侍従・京都外国語大学教授を歴任した岡部長章(岸和田藩岡部家13代当主・岡部長職の八男)に嫁いでいる。なお、小川一真は、明治15年、横浜居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ軍艦に水兵として乗船し、単身渡米留学をする。アメリカでは、旧岸和田藩主の岡部長職の知遇を得て、乾板製法やコロタイプなどの当時最新の写真術を学んでいる。また、英二郎の妻は歌人・詩人として知られる北原白秋の長女であるため、岩崎家は櫻井家・北原家及び岡部家と姻戚関係で結ばれているといえる。ブラジル東山農場社長の岩崎透は英二郎の長男で、輝弥の孫にあたる。