
◆小川一真
武蔵国忍藩藩士・原田庄左衛門の次男として生まれる。 写真技術者・印刷技術者の小林忠治郎(旧姓・原田徳三郎)は実弟。 忍藩・培根堂で学んでいる。文久3年、武蔵国行田藩士・小川石太郎の養子となる。この頃から小川一眞と名乗っている。明治 6 年、藩主・松平忠敬の給費で東京の有馬学校に入り土木工学と英語学を修める。 この頃、写真術に興味を持ったという。 明治8年、有馬学校を卒業して帰郷。明治8年、熊谷の写真師・吉原秀雄の下で働きながら写真湿板撮影法を学ぶ。明治8年(10年とも)、上州富岡町で「小川写真館」開業。この頃、古沢福吉(富岡町初代郵便局長)と親交があり支援を受けている。明治13年、築地のバラー学校へ入学し、英語を習得。明治14年、横浜の外国人居留地で警察の通詞を勤める。明治14年、富岡町の写真館を閉じ、横浜の下岡太郎次郎(下岡蓮杖の弟子で養子)に写真術を学んでいる。明治14年、第2回内国勧業博覧会に出品したが評価されなかったという。明治15年、横浜居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ軍艦に乗船し、単身渡米。旧岸和田藩主・岡部長職の知遇もあったと伝わる。最新の写真術を会得するべくアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンのハウスティング写真館に住み込みで働く。また、欧州の最新写真技術やコロタイプ印刷などを体得している。明治17年(18年とも)帰国。明治 18 年、東京府麹町区飯田町四丁目一番地に「玉潤会(玉潤館)」を設立。カーボン印画法の材料を販売する会社も起こしている。 明治 19 年頃、中西應策が門人となっている。 明治 20 年、内務省の委嘱で皆既日食のコロナ撮影を行う。 明治 21 年、枢密院顧問官で男爵、図書頭の九鬼隆一による近畿地方の古美術文化財調査に同行。 奈良の文化財の調査撮影を行った。 のち岡倉天心らと国華社を設立。 明治 22 年、日本初のコロタイプ印刷工場「小川写真製版所」を京橋区日吉町に設立。また、コロタイプ印刷による図版入りの美術雑誌『国華』を創刊。 明治 24 年、光村利藻は、小川一真に伝授料 200 円を支払って最新のコロタイプ印刷をマスターし、光村印刷(東証 1 部上場)の基礎を築いた。 明治24年、浅草凌雲閣が開催した「百美人」コンテストを撮影。明治 26 年、シカゴ万国博覧会にあわせて開かれた万国写真公会に商議員として参加し、渡米。 網目版印刷の存在を知り、アメリカで印刷機械や器具、印刷材料一式を購入して帰国。 明治 27 年、網目版印刷業を開始。 日清戦争で東京朝日新聞の附録や博文館発行の『日清戦争実記』などの写真図版を手がけ、日露戦争で『日 露戦役写真帖』など数多くの写真帖を出版。明治35年から明治40年にかけて、渡邊銀行創立者の一族・渡邊四郎、実業家の岩崎輝弥(岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助の子)は、小川一真に依頼して北海道から九州まで、全国各地で多くの鉄道写真を撮影した。これらの写真は現在、さいたま市にある鉄道博物館に所蔵された。明治 36 年、板垣退助の三女、 板垣婉(えん)と結婚。(二人の妻に先立たれており、3人目の妻) 明治 39 年、勲五等双光旭日章を受章。明治 43 年、写真師として初の帝室技芸員を拝命。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、写真文化に大きな業績を残した。東京芝白金の前島英男(丸木利陽門下)とともに宮内省写真部を設立。大正2年、小川写真化学研究所を創設。大正4年、神奈川県平塚市で死去。従六位。
◆岡部長職
和泉岸和田藩の第13代(最後)の藩主で、明治・大正時代の政治家・外交官。英国公使館参事官、外務次官、司法大臣、東京府知事、枢密顧問官、法律取調委員会会長などを歴任。岸和田藩岡部家14代。官位は正二位勲一等子爵。1854年(嘉永7年)11月15日、江戸藩邸にて生まれる。幼名は弥次郎。父の長発は長職が生まれた翌年2月に早世し、家督は伯父の長寛が継いだ。長職は長寛の養嗣子となり、成長した後に家督を譲られることとなった。そして1868年(明治元年)12月28日、長寛の隠居により家督を継いだ。1869年(明治2年)、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行なった。1871年(明治4年)の廃藩置県で免官となり、東京へ移る。1874年(明治7年)慶應義塾に入学し、福澤諭吉が「行状宜敷人物」と評して1875年(明治8年)11月、渡米させる。イェール大学へ入学するが中退しており、その理由はあきらかでない。1878年(明治11年)アメリカでリバイバリストのドワイト・ライマン・ムーディーの説教を聞いて回心し、キリスト教信仰を持つことになる。手紙で、日本基督組合教会の新島襄と沢山保羅に手紙で、故郷の岸和田の伝道を依頼する。新島と沢山の伝道の結果、1885年(明治18年)に岸和田教会が誕生した。ケンブリッジ大学に数年間学ぶ。その後もヨーロッパ各国を歴訪した。帰国後は、三好退蔵の自宅で聖書研究に参加していたが、近所にあった霊南坂教会(現・日本基督教団霊南坂教会)に合流して教会員になる。
小川一真は、明治15年、 横浜居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ軍艦に水兵として乗船し、単身渡米留学をする。アメリカでは、旧岸和田藩主の岡部長職の知遇を得て、乾板製法やコロタイプなどの当時最新の写真術を学んだ。
1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵。1886年(明治19年)3月、公使館参議官となる。翌年12月からはイギリス公使館に勤務し、臨時代理公使を務めた。1889年(明治22年)12月には外務次官となり、1890年(明治23年)7月には子爵の貴族院議員となった。青木周蔵外相の下、条約改正に尽力。しかし1891年(明治24年)、大津事件が起こると、その事件の責任を取る形で外務次官を辞任した。1897年(明治30年)10月、高等官一等に叙任し、東京府知事となる。この頃には貴族院会派・研究会の幹事長を務めるなど、貴族院議員の中心人物として活躍していた。そのため、1908年(明治41年)7月には第2次桂太郎内閣の司法大臣に任じられ、1911年(明治44年)の大逆事件では、その処理に務めている。1916年(大正5年)4月8日には枢密顧問官となり、同月11日、貴族院議員を辞職した。その他、南満州鉄道株式会社設立委員、鉄道国有調査会副会長、宗秩寮審議官、東京保善商業学校校長等の要職を歴任。晩年は一木喜徳郎と共に大正天皇の側近として宮内省にあった。1925年(大正14年)12月27日、かねてより患っていた脳梗塞が再発し、72歳で死去。両陛下より祭資が執り行われる。墓所は東京都港区の青山墓地。
身の丈180cmを超えるという、当時としてはもちろん、現代人と比較しても大柄な人物であった。第11代藩主・岡部長発の長男。母は鳥居忠挙の娘。最初の妻は青山幸哉の娘・錫子。2番目の妻は前田斉泰の娘・坻子(おかこ)。坻子は1867年生まれで学習院卒、有栖川宮威仁親王妃慰子の叔母にあたり、1892年に長職と結婚、1909年には愛国婦人会長就任。子は岡部長景(長男)、村山長挙(三男)、岡部長章(八男)。尾高豊作の妻(三女)。後に長男・長景は、東条英機内閣のもとで文部大臣となっている。三男・長挙は朝日新聞創設者の村山龍平の婿養子となった。八男・長章は侍従・京都外国語大学教授を歴任した。長景は加藤高明(三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の娘婿)の長女・悦子と結婚しており、長章は岩崎輝弥(岩崎弥之助の三男)の長女・妙子と結婚したので、岡部家は三菱の創業者一族・岩崎家と二重の姻戚関係を持っているといえる。岩崎輝弥は1902年から1907年にかけて渡邊銀行創立者の一族・渡邊四郎とともに写真家・小川一真に依頼して北海道から九州まで、全国各地で多くの鉄道写真を撮影した。娘・盈(みつ)は新井領一郎の長男・米男に嫁いだ。