【古写真関連資料】帝室博物館と、写真師たち(小川晴暘、米田太三郎、工藤利三郎、早崎天真)

【古写真関連資料】帝室博物館と、写真師たち(小川晴暘、米田太三郎、工藤 利三郎、早崎天真)

小川 晴暘
本名は小川晴二。明治 41 年、有馬温泉で母の従弟・日野有三が営む日野写真館に暮らし、写真術を身につける。明治 43 年、画家を志し、上京。明治 44 年、写真師・丸木利陽に入門。明治天皇御真影調製係主任を務める。また、太平洋画会研究所にて洋画を学ぶ。大正 3 年、徴兵検査のため丸木写真館を辞す。丸木利陽の「陽」の字を貰うが、「暘」に変えて「晴暘」と名乗る。大正 7 年、文展(現・日展)洋画部に作品「雪解けの頃」で入選。 大正 7 年、大阪朝日新聞社編集局写真部に入社し、奈良に下宿生活を送る。大正 10 年、新聞社勤務の傍ら撮影した石仏の写真が会津八一の目にとまる。大正 11 年、歌人・美術史家・書家の會津八一と共に春日山の石仏群を撮影。大正 11 年、朝日新聞社を退職。
大正 11 年、奈良に仏像など文化遺産の写真を専門とする飛鳥園を創業。大正 11 年、浜田青陵・天沼俊一・源豊宗など美術史・建築史研究の第一人者たちが飛鳥園を訪れる。大正 12 年、會津八一が奈良美術研究会を創立。會津八一・安藤更生・板橋倫行らと共に室生寺に赴き、一週間写真撮影を行う。大正 13 年、日本を代表する日本美術史家、文学博士源豊宗の協力を得て飛鳥園に仏教美術社を設立。また、古美術研究専門の季刊誌『仏教美術』を創刊。昭和 14 年、中国大同の雲崗石窟の撮影に出発。写真撮影のほか、拓本やスケッチも行う。昭和 16 年、東京新宿の伊勢丹百貨店で「大同雲岡写真展」を開催。昭和 34 年、奈良県文化賞受賞。昭和 35 年、死去。 美術史家・小川光暘は次男。仏像写真家・小川光三は三男で、飛鳥園を継いだ。 後に飛鳥園からは、奈良国立博物館写真室の矢沢邑一、五味義臣、京都国立博物館の金井杜道ら文化財写真家が輩出されている。

米田 太三郎
中学を卒業後、小川晴暘に入門。 昭和 14 年、東京帝室博物館に務める。 昭和 38 年、東京国立博物館に移る。のち学芸部資料化写真室長に就任。 昭和 48 年、定年退職。 仏像や国宝の写真を数多く撮影した。

工藤 利三郎
別名は工藤精華。 東京で警察に就職後、川路利良(のちに日本警察の父と呼ばれる官僚)の下で西南戦争に従軍。戦後、徳島の藍商・坂東家の東京支店に勤務。明治11年、古画鑑賞会に加わり、写真班として古書画の撮影に従事して写真術を学ぶ。 日本の古画、美術品が盗まれ、外国人に売り飛ばされている現状を知り、文化財を写真に記録しようと志す。 明治 16 年頃、帰郷し、徳島にて営業写真館を開業。明治 26 年、奈良猿沢池東畔に移住し、古美術・古建築専門の写真館「工藤精華苑」を開業。法隆寺の学僧の佐伯定胤との交流をきっかけに、古社寺保存法の施行による寺社建築や仏像等の証明写真、奈良帝室博物館の開館によるおみやげ写真等の需要が増えた。同郷の歴史学者・喜田貞吉や、岡倉天心などと親交があった。 明治 41 年、大正 15 年までかけて大型写真集『日本精華』(11巻)を小川一真のコロタイプ印刷にて出版。 日本美術の普及に貢献し、古美術写真家として評価を得た。 昭和 4 年、奈良にて死去。 没後、ガラス原版の一部が奈良市に引き取られ、現在は入江泰吉記念奈良市写真美術館に保存され国の有形文化財に指定されている。

早崎 天真
中国美術学者。 明治7年、(1874)三重県津市生まれ。本名は早崎稉吉。東美校卒。橋本雅邦に師事。東京に住した。早崎家は、代々津藩士をつとめた。祖父・早崎勝任(1805年生)は、本姓は森田、別名は早崎士信、早崎門太夫、早崎南涯、早崎巌川と号して、はじめ津阪東陽、猪飼敬所らに学び、のち江戸の昌平坂学問所で古賀侗庵に学んでいた文人。帰藩して藩校有造館講官となった。父は津藩士・早崎勝文。早崎勝文は、早崎鉄道人と号し、藩校の講官であったが36歳で早逝したと伝わる。母は早崎慶。早崎天真は、明治19年、津藩校の教官であった土井有恪(号・黌牙、1817-1880)の凍水舎で漢学、書画を学ぶ
明治24年、小学校を卒業し、画家を志して上京。
明治24年、橋本雅邦に入門。
明治24年、岡倉天心の書生となり、中根岸の岡倉家で寄宿生活を始める。
明治25年、東京美術学校日本画科に入学。
明治26年、田中猪太郎小川一真らに写真術を学び、日本橋浜田の大西某に中国語を学ぶ。
明治26年、7月から約5ケ月間、岡倉天心は帝国博物館から中国美術調査のため清国出張を命じられ、中国各地を撮影旅行することになり、それに同行する。
明治29年、岡倉天心の異母姪・八杉貞(1869-1915)と結婚。
明治30年、同校日本画科を卒業。
明治30年、帝国博物館の委嘱で、奈良で法隆寺や新薬師寺で古画の模写を行っている。
明治32年、中国美術研究のため、再び中国(北京)に渡る。
明治33年、帰国。
明治33年、兵役に服す。また古社寺保存計画の嘱託なども行った。
明治35年、清国陜西省三原大学堂の教習に招聘され3度目の中国訪問。三原高等学堂陜西武備学堂教習、また東京帝室博物館の嘱託で陜西地方の古美術品調査にも当たった。
明治39年、帰国。
明治39年、美術品の購入などを目的に岡倉天心に同行し、ふたたび四度中国へ渡る。
明治40年、帰国。
岡倉天心没後も、ボストン美術館の美術品購入のためにたびたび訪中している。
昭和31年、東京で死去。

◆帝室博物館
明治後期から連合国軍占領期にかけて存在した、宮内省所管の博物館の総称である。ウィーン万国博覧会の準備機関として、日比谷門の旧本多邸跡に1872年(明治5年)2月に正院が設置した「博覧会事務局」に由来する。移転後の1873年(明治6年)3月、文部省所轄の博物館・書籍館・博物局並びに小石川薬園が博覧会事務局に統合され、植物科(植物・動物・鉱物)・考証科(考古・書籍)・工業科(機械・殖産)・庶務科(翻訳・書記)が組織され、同年5月の万国博覧会参加となる。万国博覧会後の1875年(明治8年)2月に統合機関が部分解体されて再び文部省に戻され、博覧会事務局も同年3月30日に内務省所轄となり「博物館」と改称される。第六局と称された短期間があったが、1876年(明治9年)1月に再び博物館へ改称され、同年4月に博物館内の運営事務部門も博物局と改称、内務省所轄下で博物局内の各科が改組、専門化した。1881年(明治14年)4月に博物局が内務省から農商務省へ移管され、札幌博物場の一時管理や園芸課の新設置を経て、1883年(明治16年)10月に奈良博覧会等で明治8年から一部公開されていた正倉院宝物の保管事務が宮内庁へ移管される。1886年(明治19年)3月に農商務省の博物局が廃止される。同年同月に博物館は宮内庁移管となり、1888年(明治21年)1月に宮内庁図書寮付属の博物館となり、各地に人員を派遣して古社寺における美術品鑑定や保存維持等の調査を行う。1889年(明治22年)5月16日に図書寮付属の博物館を廃して、帝国博物館(東京)・帝国京都博物館・帝国奈良博物館の帝国博物館3館が設置された。1900年(明治33年)7月1日、帝国博物館3館が改称され、東京帝室博物館、京都帝室博物館、奈良帝室博物館が成立した。 その後、京都帝室博物館は1924年(大正13年)に京都市に移管され、恩賜京都博物館となった。東京・奈良の2館は、1947年(昭和22年)に文部省所管の東京国立博物館・奈良国立博物館にそれぞれ改組された。