【古写真関連資料】幕末明治の写真師と温泉街、旅籠町

【古写真関連資料】幕末明治の写真師と温泉街、旅籠町

◆旅籠町
日本の地名。異体字によって旅篭町と表記される地名もある。職業に由来する地名のひとつ。日本の廃止された町名を含め、以下に記載する。
旅篭町 (山形市) – 山形県山形市の町名。
旅籠町 (富山市) – 富山県富山市の町名。
旅籠町 (高岡市) – 富山県高岡市の町名。
旅籠町 (浜松市) – 静岡県浜松市中区の町名。
久居旅籠町(津市) – 三重県津市の町名。旧久居市旅篭町。
旅籠町 (亀岡市) – 京都府亀岡市の町名。
東旅籠町・西旅籠町 – 和歌山県和歌山市の町名。
旅篭町 (高松市) – 香川県高松市の町名。
北旅籠町東・北旅籠町西・南旅籠町東・南旅籠町西 – 大阪府堺市堺区の町名。
旅籠町 – 宮城県仙台市の町名。青葉区宮町へ編入。
神田旅籠町 – 東京都千代田区の町名。外神田へ編入。
通旅籠町 – 東京府東京市日本橋区の町名。大伝馬町・堀留町などへ編入。
旅籠町 – 東京府東京市浅草区の町名。柳橋へ編入。
新旅籠町 – 東京府東京市浅草区の町名。蔵前へ編入。
旅籠町 (名古屋市) – 愛知県名古屋市中区の町名。中区松原・橘へ編入。
旅籠町 – 大阪府大阪市北区の町名。北区南森町へ編入。

◆温泉街
温泉に付随して温浴施設や宿泊施設、飲食店や土産物店、遊戯店などが立ち並ぶ町並み。一概に温泉街といっても実に多種多様である。鉄筋の大型ホテルやリゾートホテルが建ち並ぶような温泉街から昔ながらの木造旅館が並ぶもの、昔ながらの湯治場など様々である。このような変化を及ぼす要因としては次のようなものが挙げられる。
1.地形条件
地形条件はその場所が、沿岸部、丘陵地、田園地帯、山野、河谷、急崖などによって温泉街の開発に制約が生じたり、また温泉街の構成に面的な変化が起こったりする(例:指宿温泉、伊香保温泉、宇奈月温泉など)。また、周辺の自然景観を借景や囲繞環境として有効活用したりと、温泉地のイメージに応じた開発が行われたりする(例:由布院温泉、瀬波温泉、清津峡温泉など)。
2.交通条件(他都市、他地域との密着、近接性)
主要都市に近いと、その奥座敷として発展するケースは多い(有馬温泉、定山渓温泉、月岡温泉、飯坂温泉など)。比較的遠方でも、港湾整備や観光航路の開設、鉄道の敷設や専用自動車道の開通などに伴い、人口が稠密する大消費地などと密着性を持つと急速に発展を遂げることもある(別府温泉、山代温泉、芦原温泉、鬼怒川温泉など)。また、著名な観光地が近いと、その観光拠点として温泉が開発される例もある(阿寒湖温泉、洞川温泉、阿蘇内牧温泉、天橋立温泉など)。
3.経済条件(外部からの流入資本や地元の地域振興など)
地形条件や交通条件などに優れると、大都市や海外などの企業から大量の資本が投入され、一大リゾート地を形成することがある(バーデンバーデン、越後湯沢温泉、南紀白浜温泉など)。また、それとは対照的に地元資本で衰退した温泉地の再興の気運を高め、独自の政策、方針などで温泉地を興隆していった例も見られる(黒川温泉、乳頭温泉郷、小野川温泉など)
4.泉質、湯量など温泉自体が及ぼすもの
温泉は泉質が優れ、効能が高いものであるとその温泉は専ら保養、湯治などに用いられ、そのような客を対象とした温泉街を形成することがある(スパ、俵山温泉、酸ヶ湯など)。また、温泉療法を行う医療施設の進出をきっかけに温泉街が発達したり(三朝温泉、亀川温泉など)、湯の花の生産など特殊な産業をきっかけに温泉街が形成されることがある(明礬温泉など)。湯量が豊富であると保養温泉と行楽温泉として発展すべき双方の条件を満たす温泉も現れることがある(ホットスプリングス、草津温泉、下呂温泉、鉄輪温泉など)。これらの様々な条件は複合することも多く、その他様々な理由から変化に富んだ温泉地が形成される要因となっている。

◆写真師・林田 朝柳
長野(下高井郡渋沢温泉場)で開業。

松坂 萬右衛門
本名は川辺萬右衛門。松坂万右衛門の表記もある。相模芦ノ湯村の旅館・ 松坂屋の養子となり、7代目を継いだ。箱根地域の風景写真を取り扱っており、写真台紙の裏に松坂萬右衛門の表記がある。芦之湯や箱根の振興のために活動した記録が残る。明治31年、宮ノ下から芦ノ湯を経由して芦ノ湖にいたる箱根の道路開削を計画した際、私財を投じて松岡広吉(箱根町長)らの協力を得、明治37年に完成させた。昭和2年、死去。

◆写真師・ 嶋 周吉
家業は堂が島温泉の温泉宿「江戸屋」を営んでいた。兄の名は嶋元吉。小川一真の写真アルバムにある「堂が島の滝」という写真に、兄の孫(一寸木仙太郎)が写されている。幕末の頃、江戸屋に滞在した外国人写真家が持っていた写真機材に興味を惹かれ、のち横浜で学んだ。明治11年、箱根に冨士屋ホテルが開業するのと同時に、箱根宮ノ下で開業。皇族や財界、ほか文化人、著名人、また、 海外からの来賓(チャールズ・チャップリン、ジョン・レノン、ヘレンケラーなど)が箱根に滞在した際に撮影している。ガラス原版が箱根町に保存されている。

◆写真師・ 日野有三
明治中期から営業していた形跡がある。明治 41 年、小川晴暘は有馬温泉で母の従弟・日野有三が営む日野写真館に暮らし、写真術を身につけている。

◆写真師・ 小川晴暘
本名は小川晴二。明治 41 年、有馬温泉で母の従弟・日野有三が営む日野写真館に暮らし、写真術を身につける。明治 43 年、画家を志し、上京。明治 44 年、写真師・丸木利陽に入門。明治天皇御真影調製係主任を務める。また、太平洋画会研究所にて洋画を学ぶ。大正 3 年、徴兵検査のため丸木写真館を辞す。丸木利陽の「陽」の字を貰うが、「暘」に変えて「晴暘」と名乗る。大正 7 年、文展(現・日展)洋画部に作品「雪解けの頃」で入選。 大正 7 年、大阪朝日新聞社編集局写真部に入社し、奈良に下宿生活を送る。大正 10 年、新聞社勤務の傍ら撮影した石仏の写真が会津八一の目にとまる。大正 11 年、歌人・美術史家・書家の會津八一と共に春日山の石仏群を撮影。大正 11 年、朝日新聞社を退職。
大正 11 年、奈良に仏像など文化遺産の写真を専門とする飛鳥園を創業。大正 11 年、浜田青陵・天沼俊一・源豊宗など美術史・建築史研究の第一人者たちが飛鳥園を訪れる。大正 12 年、會津八一が奈良美術研究会を創立。會津八一・安藤更生・板橋倫行らと共に室生寺に赴き、一週間写真撮影を行う。大正 13 年、日本を代表する日本美術史家、文学博士源豊宗の協力を得て飛鳥園に仏教美術社を設立。また、古美術研究専門の季刊誌『仏教美術』を創刊。昭和 14 年、中国大同の雲崗石窟の撮影に出発。写真撮影のほか、拓本やスケッチも行う。昭和 16 年、東京新宿の伊勢丹百貨店で「大同雲岡写真展」を開催。昭和 34 年、奈良県文化賞受賞。昭和 35 年、死去。 美術史家・小川光暘は次男。仏像写真家・小川光三は三男で、飛鳥園を継いだ。 後に飛鳥園からは、奈良国立博物館写真室の矢沢邑一、五味義臣、京都国立博物館の金井杜道ら文化財写真家が輩出されている。

◆写真師・ 山口 勇三郎
芳勇館、山口写真館の館名が残る。 山形(旅籠町議事堂前) で開業。

◆写真師・ 船田 万太夫
屋号は「阿波屋」。 明治 6 年、下岡蓮杖から写真術を学ぶ。 明治 7 年、下田で営業写真館兼旅館を開業。 のち三代目まで下田で旅館兼写真館を営業していたが、その後廃業した。

◆写真師・ 百瀬 藤雄
明治 38 年、単身渡米し、写真を学んだ。 大正 13 年、帰国し、長野県松本にリリー写真館を開く。 新聞社からの依頼、絵葉書用の山野写真が多い。 昭和 4 年、東京・日本橋三越で全紙サイズの山岳写真約 40 枚による「日本アルプス展覧会」を開催。 昭和 29 年、写真館を閉館し、旅館を経営。

◆写真師・ 米林 八十八
隠居後の号一光は。文化十年金沢にて生まれる。明治11年に石川県に提出した身上書が残っており、その時点での住居は「石川縣下第拾大区小八区南町四拾五番邸」。文政10年、紙細工師・北隅半蔵に入門。文政12年、京都五条通橋下の奇物師・中村屋弁吉(写真師・大野弁吉)に入門。番頭を務め、共に移住していた。文政13年、大野弁吉とともに帰郷し、石川郡大野村に移る。天保6年まで大野弁吉のもとで学んだ。天保6年、4月江戸へ出て、外神田金助町の従弟・米林峯吉のもとに居住。神田の大道具仕掛師・長谷川勘兵衛に入門。なお、長谷川勘兵衛は歌舞伎大道具師の家系で日本橋の宮大工であった1世は、江戸の歌舞伎各座の大道具を専門に明暦の頃から活躍しており、米林八十八の師匠は14代、または15代と思われ、その頃の長谷川は舞台機構の改良,仕掛物の工夫に手腕を発揮し、戸板返し、ちょうちん抜け、宙乗りなどを生み出している。天保6年、10月頃より米林峯吉のもとで人形細工並根付彫工等を行っていたが、まもなくして金沢上堤町に帰郷し奇物師として活動をする。嘉永2年、能登国七尾府中町の旅籠商船蔵屋與三右工門のもとで時計修復業を行っている。のち、能登国宇出津尾山屋源右工門のもとで時計修復業を行っている。のち、能登国宗玄引山で人形等修復業を行っている。のち金沢に戻り、文久2年から3年頃、雷管製造販売などを行う。藩御用器械師となる。 改めて大野弁吉に入門して写真術を学んで小池兵治に伝授した。明治初期、硝子店を開く。明治4年、長男が「米林八十八」を名乗り家督を継いでいる。明治 9 年、仲町に写真館を開業。明治 22 年、死去。大野弁吉の号「一束」、米林八十八の号「一光」については、フリーメーソンの影響があったという意見もある。

◆写真師・ 島 霞谷
島嘉國の表記もある。父は旅籠角屋・島仁三郎(島英林)。名は 島玉之助。 弘化 4 年、幼い頃から画才に優れており、椿椿山(江戸時代後期の日本の文人画家である)が主宰する画 塾「琢華堂」に入門した。 安政 3 年、蕃書調所で翻訳に従事。 文久元年、蕃書調所で洋画を学び、外国人から写真術を修得。 親族の幕臣・寺沢槻之丞の弟として入籍してもらい開成校絵図調出役として雇用された。 慶応年間、岩橋教章は、戦乱を避けてきた写真師・島霞谷、隆夫妻を自宅に住まわせ、写真術の手ほどき を受けた。 慶応 3 年、絵図調出役に就任。なお、絵図調出役の前任者は中島仰山であった。動植物図鑑の博物画の制作に加わった。 江戸下谷で写真館を開業。 明治元年、一代限りの家来となり、島仁三郎と改名。 明治元年、地図御用出役。 明治 2 年、徳川茂栄に写真術を教授。 明治 2 年、大学東校中写字生となる。 解剖図や、頭蓋骨の写真撮影、活版印刷活字(東校活字)などを行う。 明治 3 年、大写字生(従八位)に昇進。 明治 3 年、死去。墓所は浅草新堀端の浄念寺。 妻の島隆は日本最初の女性写真家とされる。

◆写真師・ 横山 松三郎
別名は横山文六(三代)。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、国後島・択捉島間の航路を開拓した豪商の廻船商人・高田屋嘉兵衛および高田屋金兵衛に仕え、冬期以外は箱館から択捉島に出向き、漁場を管理(支配人)していた。 天保 4 年、高田屋が闕所処分を受ける。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、その後も松前藩の場所請負人制となり択捉島で引き続き支配人を務めた。 嘉永元年、父が亡くなり、家族とともに箱館に帰る。 嘉永 5 年、箱館の呉服屋で奉公する。 画を好み、葛飾北斎の漫画を写していたという。 嘉永 7 年、ペリーの米艦隊が箱館に上陸したときに、写真を知る。 安政 2 年、商店を開いた。安政3年、箱館に「諸術調所」という洋式学問所を開設し、横山松三郎は諸術調所で武田斐三郎から薬品の調合を学んでいた。 武田斐三郎は宮下欽の縁者である牧野毅と強く関わっている人物。安政 4 年、病気のため商店を閉店。この頃、写真機の製作を試みる。 安政 6 年、箱館が自由貿易港となり、米国人・露国人・英国人が住むようになると、彼らから洋画・写真 術を学んだ。 ロシア領事ヨシフ・ゴシケヴィッチから昆虫の実写画を頼まれ、その代わりに写真術を学んだ。 文久元年、ロシア領事館の神父・ニコライを通じて、ロシア人通信員レーマンの助手となり、洋画を学ぶ。 文久 2 年、海外で写真を学ぼうと、箱館奉行所の香港・バタヴィア行貿易船「健順丸」に商品掛手附とし て乗り込む。しかし、品川港で渡航中止となってしまった。 元治元年、上海へ渡航が叶う。欧米の洋画・写真を見聞した。 帰国後、横浜で 下岡蓮杖に印画法を教わる。 のち箱館に戻った。 慶応元年、再び上京し下岡蓮杖に写真と石版術を教わる。 慶応元年、箱館に戻り、木津幸吉田本研造に印画法を教えた。 明治元年、下岡蓮杖に再び石版印刷を学んだ後、江戸両国元坊に写真館を開く。 明治元年、上野池之端に移転し、館名を「通天楼」とした。「通天楼」は、写真館兼私塾であったという。明治元年頃、中島待乳は横山松三郎に師事し、修正術・採光法を学んだ。 なお、待乳の号は横山松三郎が浅草名勝待乳山に因んで付けたとされる。 明治元年、宮下欽が学んでいる。 宮下欽は門人として技術を磨いていただけでなく、「通天楼」の経営面にも奔走していたという。明治 3 年(2 年とも)、門人たちと共に日光山に赴き、中禅寺湖や華厳滝、日光東照宮などを撮影。 片岡如松は日光山撮影に訪れた横山松三郎に同行し、写真術を習う。 岩の上で帽子を振る横山松三郎の様子を撮影している。 横山松三郎の「松」の字をとり、片岡久米から片岡如松と改める。 明治 4 年、蜷川の依頼で、内田九一と共に荒れた江戸城を撮影。 明治 5 年、蜷川式胤により『旧江戸城写真帖』計 64 枚に編集。洋画家・高橋由一によって彩色された。 明治 6 年、通天楼に洋画塾を併設。亀井至一や亀井竹二郎、本田忠保などの画家を育てた。 明治 7 年、漆紙写真と光沢写真を作った。 明治 7 年、成田常吉が学んでいる。 明治 8 年、菊地新学が学んでいる。 明治 8 年頃、山田境が学んでいる。 明治 9 年、織田信貞に通天楼を譲渡して、陸軍士官学校教官となる。 フランス人教官アベル・ゲリノーから石版法や墨写真法などを教わる。 明治 11 年、士官学校の軽気球から日本初の空中写真を撮影。 明治 13 年頃、「写真油絵法」を完成させる。 明治 13 年、田中美代治が学んでいる。 明治 14 年、陸軍士官学校を辞し、『写真石版社』を銀座に開く。 明治 17 年、市谷亀岡八幡宮社内の隠居所にて死去。墓地は函館の高龍寺。 明治 18 年、写真油絵技法は弟子の小豆澤亮一に継承された。 弟・横山松蔵は北海道で写真師となっている。 妻は紙半旅館(下鉢石町)の主人・福田半兵衛の長女・ 蝶(ちょう)。甥の慶次郎(松三郎の妹・千代の息子)はのち養子に迎え、「横山慶」と改名。明治8年の東京名士番付『大家八人揃』(東花堂)に「清水東谷横山松三郎内田九一守山(森山)浄夢加藤正吉北丹羽(北庭)筑波小林玄洞」の名がある。

明石 博高
明石氏は、明石竜映の末孫と伝わる。 外祖父は蘭方医・松本松翁。祖父・明石弥平善方も蘭学に通じていた。 父は明石弥平高善、母は浅子。 幼名・弥三郎。実名・博人。字・博高。号・静瀾、万花堂主人。 京都四条通堀川西入唐津屋町の医薬商の家に生まれた。 父の明石弥平高善が早く他界したため、外祖父・松本松翁に育てられた。 のち、三条柳ノ馬場に住んでいたと伝わる。 国文や歌学を僧・忍向、五十嵐祐胤に学び、儒学を神山四郎に学ぶ。 医学については、祖父・明石弥平善方や津藩医・柏原学介から学んでいる。 文久年間、辻礼輔から写真術を学ぶ。 文久 2 年、堀真澄(初代)に写真術を教えている。 慶応元年、辻礼輔を撮影(湿板写真)。 慶応元年、師であった新宮涼閣と「京都医学研究室」を創設し、本格的に医学と化学の研究をはじめる。 慶応 2 年、「煉真舎」を創設。理科学、薬学を研究。有馬温泉や京都周辺の鉱泉の成分分析等を試みた。 明治 2 年、大阪病院を創設し薬局主管となる。医師はハラタマ、ボードインなどを海外から招へい。 また、大阪舎密局でハラタマのもとで助手も務めた。 明治 3 年、京都府が京都舎密局を創設。写真の研究を行う。 ヘールツ(オランダ人)、ワグネル(ドイツ人)の指導により理化学研究と教育が行われ、京都の伝統産 業(陶磁器、織物、染色)や、石鹸、ビール、七宝、ガラス製造などの研究が行われた。 明治 7 年、京都で日本最初の医師免許試験の実施を提言。 明治 8 年、御池木屋町でドイツ人医師らによる診療を開始。 明治 8 年、この地にあった粟田口青蓮院宮(久邇宮朝彦親王)旧邸を修築して仮病院を設立。診療と医学 教育を開始。 明治 13 年、河原町広小路に移転。(大正 13 年、京都府立大学附属病院となった。) 明治 14 年、京都舎密局は、植村知事の転任に伴い廃止。府を退いて実業界に入り、後に医業に専念。 療養所、病院、製糸場、製紙場、養蚕場、牧畜場などの創設、文化財の保存、博覧会の開催などにあたり、
多くの京都の殖産興業、文化事業に尽力した。 大型暗箱を携えて近畿地方を撮影した「撮影須知」が残っている。 明治 43 年、死去。