
旧姓は佐藤。のち松本順とも名乗っている。幼名は順之助、通称は法眼。外務大臣の林董は実弟。写真師・佐藤福待は縁者。天保 3 年、下総佐倉藩医・佐藤泰然の次男として生まれる。幼い頃より蘭学を学んだという。 嘉永 2 年、幕医・松本良甫の養子となる。 安政 4 年、長崎伝習之御用を命じられ、長崎遊学し、オランダ軍医のポンペに医学、蘭学等を学んだ。 湿板写真を知り撮影を試みたが、失敗に終わっている。 その後、長崎で撮影していたフランス人写真家ロシエを知り、門下生の前田玄造を入門させた。 この頃、内田九一も松本良順の下で写真研究を行っていた。 文久 2 年、江戸で奥詰医師(第 14 代将軍家茂)の侍医となる。法眼に叙せられた。医学所頭取助を兼務。 文久 3 年、奥医師に進み、医学所頭取。 元治元年、奥医師を解かれ、寄合医師となる。 元治元年、奥医師に再任。 慶応 2 年、第 2 次長州征伐で大坂に出陣していた徳川家茂の病状が悪化し、常に近侍する。 しかし、7 月 20 日に家茂の死を看取った。 慶応 4 年、戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医。 戦後、一時投獄されるが赦免され、山縣有朋などの薦めで軍医総監となった。 明治 4 年、従五位。松本順と名乗った。 明治 40 年、死去、墓所は神奈川県大磯町の妙大寺。 写真師・佐藤福待は縁者となる。 旧姓は佐藤。のち松本順とも名乗っている。幼名は順之助、通称は法眼。外務大臣の林董は実弟。 天保 3 年、下総佐倉藩医・佐藤泰然の次男として生まれる。幼い頃より蘭学を学んだという。 嘉永 2 年、幕医・松本良甫の養子となる。 安政 4 年、長崎伝習之御用を命じられ、長崎遊学し、オランダ軍医のポンペに医学、蘭学等を学んだ。 湿板写真を知り撮影を試みたが、失敗に終わっている。 その後、長崎で撮影していたフランス人写真家ロシエを知り、門下生の前田玄造を入門させた。 この頃、内田九一も松本良順の下で写真研究を行っていた。 文久 2 年、江戸で奥詰医師(第 14 代将軍家茂)の侍医となる。法眼に叙せられた。医学所頭取助を兼務。 文久 3 年、奥医師に進み、医学所頭取。 元治元年、奥医師を解かれ、寄合医師となる。 元治元年、奥医師に再任。 慶応 2 年、第 2 次長州征伐で大坂に出陣していた徳川家茂の病状が悪化し、常に近侍する。 しかし、7 月 20 日に家茂の死を看取った。 慶応 4 年、戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医。 戦後、一時投獄されるが赦免され、山縣有朋などの薦めで軍医総監となった。 明治 4 年、従五位。松本順と名乗った。 明治 40 年、死去、墓所は神奈川県大磯町の妙大寺。
生年/出身: 1832 東京(江戸麻布)
開業年:
開業地、主要拠点: 長崎、東京
師匠: