本名は久世喜弘。生家は大垣藩領の美濃中川村の苗字・帯刀を許された差紙庄屋。 嘉永 6 年、ペリー来航のとき、藩命で人足を徴発して警備隊を組織し浦賀に赴任。 このとき、洋学の必要性を痛感し、以来、舎密学を独学する。 のち大垣板家老・小原鉄心(戸田氏とも)に認められ、京都の蘭学者・辻礼輔に入門し写真術をまなぶ。大垣藩士にとりたてられた。大垣藩江戸家老・戸田権之助(戸田三弥)や本草学者・飯沼慾斎らの援助を受け、写真術を研究。 薬品、機械、鶏卵紙などを自力で製造した。戸田三弥は写真術関係書やレンズをフランス公使から手に入れ、久世治作に贈った記録がある。なお、それらの写真術関係書を参考に、文久3年、伊勢津藩の薬種商・浜田屋の生川正香は、伊勢松坂の小島新蔵を経由し、久世治作に写真術を学んだことにより、「 鳥眞藥剰聞取書」を発刊した。 帰郷後、大垣藩の砲術取締役。 明治元年、小原鉄心の新政府会計官判事就任に伴い、会計局として出仕。 明治 2 年、参与会計掛の大隈重信と連名で「新貨ノ形状及ヒ価名改正」案を提出している。 明治 15 年、死去。
生年/出身: 1825 岐阜(美濃国安八郡中川村)
開業年:
開業地、主要拠点: