◆伊藤 博文
明治期の日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。明治時代に4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣(初代:1885年-1888年、5代:1892年-1896年・7代:1898年、10代:1900年-1901年)を務めたことで知られる。1次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となり、2次内閣では日清講和条約の起草にあたった。4次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁(在職1900年-1903年)となり、政党政治に道を開いた。他、初代枢密院議長(在職1888年-1889年)、初代貴族院議長(在職1890年-1891年)、初代韓国統監(在職1905年-1909年)、元老などを歴任した。諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と読むこともある)。「越智宿禰博文」とも名乗った。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。
守田 来蔵(もりた らいぞう)
守田来三の表記もある。 豊前中津藩士であったが、長崎奉行・松平氏伯耆守に仕えた。 文久 2 年(3 年とも)、長崎で上野彦馬に写真術の教えを受けた。 慶応元年、大阪高麗橋通浄圓寺境内に仮写場を設け開業。 明治元年、葛城思風が学んでいる。 明治 2 年、神戸二つ家西本町に移転。 兵庫県知事であった伊藤博文の支援で鏡玉にエルマジーを用いた最新写真器械を譲り受けた。 のち伊藤博文が東京に移ると再び大阪(南地阪町)に移転。 明治 5 年、守田 昌司 は、守田来蔵の養嗣子となり、大阪で写真術の教えを受けた。 明治 8 年、堀江遊郭に支店を設け、藤原義一に担当させた。 明治 22 年、死去。守田日新軒の館名が残る。
長尾 実(ながお みのる)
李鴻章を撮影した写真が残っている。 李鴻章は、下関条約(日清戦争の講和条約)で清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行った人物で、明治28年年3月から下関の引接寺に滞在し、春帆楼へ通って伊藤博文・陸奥宗光と講和会議の交渉を行った。3月24日、李鴻章が引接寺と春帆楼を結ぶ道(李鴻章道)で小山豊太郎に狙撃される事件が起こったため、日本側は列国の干渉をおそれ、まず休戦条約を調印し、4月17日に日清講和条約(下関条約)の調印を行った。
成田 常吉(なりた つねきち)
文久 2 年、福井藩士・成田半之助の二男として生まれる。明治40年の「京濱實業家名鑑」に成田常吉が掲載されており、その中で父の表記が「成田午之助」となっいるが誤りと思われる。また、その中に、父は藩の砲術指南役であったと記載されている。母は豊田サク。 成田半之助の長男・ 成田吾郎(成田市之丞)は内務省、外務省勤務、正七位に叙せられている。 妻は福井武生の造り酒屋の娘・マサ。 明治5年、福井藩の儒学者・清田丹蔵(清田松堂)の清田塾で漢学を学ぶ。 明治5年、福井藩中学校に入学。明治 6 年、上京。明治 7 年、木津幸吉の斡旋により横山松三郎の門人となった。 明治 10 年、疋田敬蔵の玄々堂で西洋画を学ぶ。 明治 12 年、大蔵省印刷局写真科技生となり、御雇外国人バロン・フォン・スティルフリード(シュティルフリート)から写真術 を学んだ。 明治 15 年、丸木利陽の許で助手を務める。 明治 16 年、鈴木真一の許で写真彩色の助手を務める。 明治 19 年、五十嵐与七に写真術を教えている。 明治 21 年、洋画家の山本芳翠、合田清等が東京で組合絵画業を開始する際、写真部を担当。 明治 22 年、山本芳翠と共に伊藤博文、大山巌等の沖縄視察に同行し撮影。 明治 23 年、宮内省から命じられ、皇居御造営落成の宮殿内外の撮影。 明治 23 年、江木保男と契約し、翌年開業の東京新橋丸屋町三番地で江木写真館銀座支店の技師となる。 明治 40 年、同店を退館。 明治 41 年、日比谷公園幸門内で写真館を開業。 昭和 4 年、死去。
上野 文七郎(うえの ぶんしちろう)
宇都宮上野家は、屋号を『油松』といい、代々油屋松次郎の名で業務を急拡大させた家柄。上野文七郎は分家で、薬種商・唐物商としてガラスや洋酒等の舶来品の販売を手がけ、のち写真師となった。別名は上埜文七郎。「写真館上埜」の館名が残っている。明治12年、米国のグラント元大統領一行が日光を訪れた際、伊藤博文、西郷従道ら政府高官との記念撮影をしている。明治16年10月より明治17年まで栃木県令・三島通庸の御用写真師として栃木地方の公的な写真を撮影している。なお、三島通庸は明治9年から明治15年まで山形県令であり、その際は菊池新学を山形の御用写真師として任命している。明治17年、栃木県庁を撮影。この写真が洋画家・高橋由一(明治 9 年、菊池新学は山形県下の近代化促進事業を画家の高橋由一と共に記録する仕事を始めている。)が描いた県庁の元となった。明治31年、死去。上野氏の祖先は越後の出身という。宝暦7年の越後は2度の飢饉に見舞われ、多くの越後人が郷里を捨て下野国に流れてきた。上野家も同じく、明和5年に宇都宮材木町六道で家を興した。上野文七郎は初代・上野松次郎の子と思われる。創業者・上野新兵衛(延享3年~文化8年、上野吉右衛門とも)は、宇都宮材木町六道で家を興した。初代・上野松次郎(天明8年~安政2年、幼名:上野武房)は、上野新兵衛の長男で、家業の製油業に専念し、屋号を『油松(材木町油屋松次郎)』とした。商いは急拡大し、手狭となった土地家屋を現在の本家がある本郷町へ移転。2代目・上野松次郎(文政10年~安政2年)は、初代・上野松次郎の長男で、家業に専念していたが、父の死後4か月にして没した。3代目・上野松次郎(天保5年~大正6年、幼名:上野栄次郎)は、初代・上野松次郎の次男で、兄の死後、兄の妻(てつ)と結婚し商いを拡大させ、宇都宮金満家番付に名を連ねるまでになった。4代目・上野松次郎(嘉永元年~大正8年、幼名:上野もと)は、2代目・上野松次郎の長女で、明治10年に養父(3代目・上野松次郎)から家督を相続した。実質の経営は3代目が行っていたという。5代目・上野松次郎(万延元年~昭和14年、幼名上野豊次郎)は、4代目・上野松次郎の長女(上野タミ)と結婚し婿養子となる。千葉県銚子市に鵜月家の出身という。宇都宮市議会議長、宇都宮商工会議所初代会頭、下野中央銀行頭取など複数の要職を務めた。6代目・上野松次郎(明治20年~昭和29年、幼名:上野順一)は、5代目・上野松次郎の長男。父同様に要職を務め、貴族院議員にもなっている。7代目・上野俊三(明治34年~昭和63年)へと家業は続いた。