【古写真関連資料】大隈重信と幕末明治の写真師たち

◆大隈 重信
日本の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。同志社大学社友。政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ教育者。

鹿野 浪衛(かの なみえ)

松代藩士。家老。「鹿埜浪衛」と表記されている写真台紙がある。 明治 3 年頃、佐久間象山の勧めで、佐久間象山の門人・小山田壱岐(松代藩次席家老、小山田之堅(歳寒 院)、別名は釆女、平三)から学ぶ。 明治 5 年頃、横浜で横山松三郎に学ぶ。 明治6年、横浜のような開港市である新潟で写真師になろうと向かう途上、長野(現長野市権堂)に 1年間滞在し開業した。
明治7年、新潟高田(上越市寺町 2)に移動し、この地に留まり鹿野写真館を開業した。明治28年、小説家・小川未明を写している。明治34年、大隈重信と高田の名士を写している。明治40年までは上越寺町2とあり、翌年からは斜め向かいの地に移転。大正 4 年、死去。 鹿野浪衛の弟・鹿野末四郎もともに写真師になり営業しているが、小山田壱岐、横山松三郎に学んでいるか定かでない。

鵜飼 玉川(うかい ぎょくせん)

父は常陸国府中藩士・遠藤三郎兵衛。 江戸藩邸で生まれ、のち母方の姓「鵜飼」を名乗る。 通称は幾之助、三次、三二。号は玉川。 書画骨董の収集・鑑定なども行い、谷文晁や渡辺崋山、文人画家・椿椿山らと交流があった。 はじめ医業を営む。 安政 6 年、横浜で米国人オリン・E・フリーマンに湿式コロジオン写真術を学ぶ。 文久元年、両国薬研堀で写真館「影真堂」を開業。 文久元年 7 月に出版された「大江戸当盛鼻競・初編」の番付に、「写真 玉川三次」とある。 文久元年 8 月 19 日、福井藩の記録に前藩主松平春嶽が玉川を呼び、横井小楠の肖像写真を撮影させたと 記載されている。深沢要橘は慶応元年頃、薬研堀の写真師・鵜飼玉川と知り合い、写真に興味を抱いたという。明治 2 年、廃業し、古物鑑識を専業とする。 明治 5 年、正倉院の宝物調査に加わる。 明治 12 年、大蔵省印刷局長・得能良介による近畿・中部地方の古美術調査に随行し、三枝守富(のち総 理大臣大隈重信の夫人綾子の実兄)とともに写真撮影を担当。 明治 16 年、東京・谷中墓地に湿式原版数百枚を埋め、写真塚を建立。 明治 20 年、死去。 昭和 30 年、写真塚の発掘調査が行われたが、石碑の重みで容器が破壊され、完全な原版はわずか数枚し か残らず、それらも発掘直後に膜面が剥離してしまったという。

砂川 鷺城(すながわ りょじょう)

本名は砂川雄峻。別名に鷺城逸史 。父は姫路藩士・砂川貫一郎。二男として生まれる。明治15年、東京大学を卒業。明治15年、東京専門学校創設にあたり、創立委員として小野梓や高田早苗などと共に大隈重信を支え、はじめ講師を務め、後に評議員・維持員を務めた。のち、大阪で弁護士として活動し、大阪弁護士会長を務めた。関西法律学校(後の関西大学)の講師となり、監事、主席理事を歴任。明治20年、大阪府会議員を務め、のち議長にも選出。明治35年、第7回衆議院議員総選挙に当選。大阪商業会議所特別会員。桑田正三郎の『桑の若苗』に、娯楽写真家の団体「浪華写真倶楽部」の創立は明治37年であり、砂川鷺城奥戸自得、薄雷山(薄恕一。著名な医師)、大西素洲横尾重之木村喜代次郎などが関わり、石井吉之助宅を会場として写場を設けたと記載されている。

三枝 守富(さえぐさ もりとみ)

800石取りの旗本・三枝七四郎の長男。東京士族。幼少時には親族である駿河台の小栗家に同居していた。明治11年、大蔵省紙幣局内の写真撮影所で写真研究に従事。明治12年、印刷局長の得能良介らの古美術調査に参加し、鵜飼玉川とともに古美術の写真撮影を行った。明治16年、日本発のコロタイプ印刷による「明陳賢観音画帖」を制作。ほか「国華余芳」「朝陽画帖」などの着色画帖や写真石版による画帖も制作した。のち小倉鉄道取締役、日本坩堝各取締役などを務めた。妹の綾子は大隈重信夫人。妻・りうは、旧幕臣・青柳武三郎の二女。

久世 治作(くぜ じさく)

本名は久世喜弘。生家は大垣藩領の美濃中川村の苗字・帯刀を許された差紙庄屋。 嘉永 6 年、ペリー来航のとき、藩命で人足を徴発して警備隊を組織し浦賀に赴任。 このとき、洋学の必要性を痛感し、以来、舎密学を独学する。 のち大垣板家老・小原鉄心に認められ、京都の蘭学者・辻礼輔に入門し写真術をまなぶ。 また、大垣藩士にとりたてられた。 戸田藩江戸家老・戸田権之助や本草学者・飯沼慾斎らの援助を受け、写真術を研究。 薬品、機械、鶏卵紙などを自力で製造した。 帰郷後、大垣藩の砲術取締役。 明治元年、小原鉄心の新政府会計官判事就任に伴い、会計局として出仕。 明治 2 年、参与会計掛の大隈重信と連名で「新貨ノ形状及ヒ価名改正」案を提出している。 明治 15 年、死去。