鈴木 真一(初代)(すずき しんいち)

本名は高橋勇次郎。 天保 6 年、高橋文左衛門の三男として生まれる。 高橋家は屋号・文左といい、代々農業と漁業の兼業の家であった。 なお高橋家は依田佐二平(政治家)、依田勉三(北海道開墾)の母(依田ぶん)の実家にあたる。天保 8 年、父、母が相次いで亡くなり、家を継いだ長兄を助け、家業を手伝った。 安政元年、下田(大工町)の資産家で質物と荒物商・鈴木與七(屋号・大坂屋)の婿養子となる。 安政元年 11 月 4 日、安政の大地震が起こり、鈴木家は甚大な被害を受け財産を失った。 のち、旧宅の瓦礫を取り除いている時、義父・鈴木與七が土中に埋めた小判等が流失を免れて出てきた。 これを元手に家は修造し、また雑貨商を営むことになるが、あまりうまく行かなかった。 のち、養蚕業に転じたが、一時的な儲けに終わった。 慶応 3 年(2 年とも)、単身で横浜に出る。 下岡蓮杖と知り合いであったため、横浜で下岡蓮杖の元へ訪ね、弟子となった。 横山松三郎と共に、下岡蓮杖の手助けをしながら写真術を学ぶ。明治5年、伊豆へ帰郷した際、江奈村に開設された私立学校「謹申学舎」の記念写真を撮影。この写真は現存し、謹申学舎塾長の会津藩士家老西郷頼母、塾生依田勉三の姿も写されている。明治 6 年、独立し、横浜弁天通六丁目弁天橋前と本町の三叉路に開業。明治 7 年、下岡蓮杖の門下・岡本圭三が長女・のぶの婿となる。 (岡本圭三は、後の二代目鈴木真一) 明治 7 年、北白川宮、小松宮を撮影。 明治 10 年、第一回内国勧業博覧会に皇族の肖像写真等を出品し、花紋章を受章。 明治 12 年、金井弥一が学んでいる。明治 14 年、東京麹町区飯田町二丁目五十三番地(九段坂)に支店を開業し、岡本圭三に任せた。 岡本圭三に 2代目鈴木真一の名前を継がせた後は鈴木真と名乗った。 明治 15 年、田中美代二が学んでいる。 明治 16 年、成田常吉が学んでいる。 明治 17 年、横浜真砂町一丁目一番地に本店を移転。モダンな洋風建築で息子の鈴木金次郎と外国人客相手の営業と国内の顧客を拡大。この頃、陶磁器に写真を焼き付ける技術を開発し、外国人向けの商品として販売した。また、風景写真と人物や、人物写真 2 点を合成した「ハテナ写真」が評判となった。明治22年、宮内省御用掛として採用され、英照皇太后、昭憲皇后の肖像写真を撮るため皇居内に写真室を立てるよう進めて認められている 明治 30 年、隠居し、長男・鈴木伊三郎へ家督を譲る。 伊三郎も「鈴木真一」と改名することになったため、岡本圭三(2 代目鈴木真一)と重なることとなった。明治35年、女子美術学校の写真学科増設に賛同したが計画が見送られる。そのため弟子の河村勇次とともに牛込西五軒町に女子写真伝習所を設立。明治期の女性に写真術を教える唯一の教育機関であった。 明治37年時点の風俗画報に学校紹介として「監督鈴木真一、河村勇次、顧問春日定夫、教師矢田鋭子と記載されている。 明治 35 年頃、岡本圭三は、二代目・鈴木 真一の名を返上している。 隠居後は礫庵久米仙人と称して、東京小石川小日向台町「礫庵」で過ごす。 大正 7 年、死去。 なお、写真館(九段坂)はのちに佐藤福待中島待乳の弟子)が購入し、佐藤写真館を開業した。のち長谷川保定に譲っている。

生年/出身: 1835 静岡(伊豆国加茂郡岩地村字岩地)

開業年: 1873

開業地、主要拠点: 神奈川(横濱本町通、横濱真砂町)、東京(九段坂)

師匠: 下岡 蓮杖

弟子: 金井 弥一 鈴木 忠視 田中 美代治 為政 虎三 成田 常吉 春日 定夫 岡本 圭三 鈴木 伊三郎 小川 顥三郎 中島 喬木 田村 鐡三郎 宮下 守雄 三春 忠次郎 黒田 正孝 赤尾 清長