立木 真一(たつき しんいち)
京都法政学校(のち立命館大学)で法律学を学び、渡米して写真学校で技術を修得していた。 皇太子殿下(のち大正天皇)の徳島行啓に父・立木信造が写真の用命を受けたため、呼び戻された。 昭和 20 年、空襲直後の徳島市街を眉山中腹から撮影。
東條 卯作(とうじょう うさく)
東条卯作という表記もある。東条家の祖先は、儒者の東条一堂。東条一堂は名を弘、字は子毅、通称は文蔵といい、上総国埴生郡八幡原村の豪農で、江戸で医業もしていた東条自得の次男として生まれ、皆川淇園に学び、昌平坂学問所(昌平黌)の近く「お玉が池」に私塾を開いた人物。明治45年、東京麹町に写真館を開業。大正天皇の大葬・昭和天皇即位の公式写真をはじめ、エリザベス女王ご夫妻、歴代の総理大臣、衆議院議長、最高裁長官、ライシャワー駐日大使、自決当日の三島由紀夫、英国皇太子ご夫妻など多くの財界人を写している。新宿区四谷1丁目の日本写真会館は東條卯作の土地提供により昭和25年落成した。
大武 丈夫(おおたけ たけお)
天童藩士・大武可直の長男。明治 24 年(23年とも)、仙台市の白崎民治の写真館に学ぶ。白崎家では家事なども兼ねて奉公していた。明治 32 年(34 年とも)、白崎民治の写真館の斜め向かい(仙台市東一番町 55 番地)にて開業。明治34年、父を天童から仙台に呼び寄せた。明治37年、仙台市の植村惣吉(写真師)の二女・「植村しめ」と結婚。明治40年、 白崎民治と大武丈夫が中心となり、「仙台写友会」結成。明治40年頃、小西六(杉浦六三郎)にドイツ製の最新レンズを発注。これを縁に、 杉浦六三郎の推薦で宮内省御用写真師となる。明治 41 年、皇太子時代の大正天皇の松島行啓を撮影。 明治 42 年、東京・日比谷に移り開業。大武写真館。明治42年、当時商工大臣であった高橋是清のポートレイトをドイツ国際写真コンテストに出品し、最高賞を得ている。 明治 43 年、火災により全焼。 明治百美人(日本初の美人コンテスト)で、二等の金田ケン子を撮影している。 孫文、島津良子、後の香淳皇后(大正11年)の写真などを写したといわれている。大正12年、関東大震災により東京の写真館を閉じ、仙台へ戻り開業した。昭和5年、死去。仙台の写真館は門人の小関昌輔が引き継いだ。小関昌輔は後に写真館を閉じ、昭和21年にはカメラ、写真感材用品、レントゲンフイルムなどを扱うコセキ商店を創業している。
久保 昌雄(くぼ まさお)
奈良県十津川の文武館(元治元年、儒学者・中沼了三が創設)に学び、のち国内各地を遍歴。当時和歌山市に住んでいた義兄・柴田杏堂が和歌山新宮にも進出をしようとしていた頃、 柴田杏堂から写真術を学んだという。明治40年、本町通りに久保写真館を開業。のち、横町通に移転。和歌山での最初の創業は「岩村天真堂」、次いで明治28年の柴田杏堂、3番目に明治40年の久保昌雄であるという。明治33年、『熊野百景写真帖』を発刊し、大正天皇の結婚奉祝のため皇室に献上された。明治36年、第五回内国勧業博覧会に「雨中の瀞峡」を出品、「特賞」に選ばれた。昭和13年、死去。写真館は息子の久保嘉弘が継いでいる。
堀 真澄(三代)(ほり ますみ)
本名は堀与一郎。 明治 28 年、父(堀真澄・二代)から写真術を学んだ。 明治 43 年、宮内省匠寮から京都御所誤用写真師を拝命した。 明治 44 年、父の死に伴って家業を継ぎ、3 代目を襲名。 明治 44 年、京都の同業者と京都写真師組合を設立し、組合長となる。大正 4 年、大正天皇即位の大礼を撮影。
丸木 利陽(まるき りよう)
旧姓は竹内惣太郎。竹内宗太。父は竹内惣太郎(竹内宗十郎)。 明治維新後、福井藩士・丸木利平の養子となる。 明治 8 年、東京に出て二見写真館に写真を学ぶ。 明治 13 年、独立し、東京・麹町(相馬邸内)に丸木写真館を開業。 明治 15 年、成田常吉が学んでいる。 明治 20 年、嘉仁親王(後の大正天皇)が近衛連隊兵営訪問の際に、親王、皇族、将校等との集合写真の 撮影に指名された。 明治 21 年、前川謙三が学んでいる。 明治 21 年、小川一真とともに明治天皇、昭憲皇太后を撮影。 明治 22 年、開業地に国会議事堂が建設されることになり、新シ橋外に移転。 明治 23 年、「丸木式採光法」を発明し、第 3 回内国勧業博覧会で 3 等賞を受賞。明治31年頃、朝鮮京城で開業していた写真師・村上天真は、丸木利陽の弟子・岩田鼎を写真技師に雇ったという内容の書かれた広告を出している。明治 42 年、日英博覧会に出品。 大正 2 年、宮内省嘱託。 大正 4 年、東京美術学校(現・東京芸大)の写真科創設に携わる。 小川一真、黒田清輝とともに帝室技芸員として大正天皇も撮影している。 東京写真業組合の組合長も務めた。 大正 12 年、死去。 門下に小川一真とともに宮内省写真部を設立した東京芝白金の前島英男(前島写真館)もいる。写真師・山本誠陽は弟。
伊東 玄朴(いとう げんぼく)
写真術を研究していた時期がある。仁比山神社に仕えた執行重助の子として誕生。のち佐賀藩士・伊東家の養子となる。執行家は、佐賀藩着座執行家および櫛田宮社家執行家の一族と考えられるが、当時は農民であった。伊東家は、戦国時代の龍造寺氏の譜代家臣・伊東家秀の子孫。長崎の鳴滝塾でシーボルトよりオランダ医学を学ぶ。文政9年、オランダ商館長・カピタンの江戸参府にシーボルトが随行する際、一緒に向かい、そのまま江戸に留まり、佐賀藩医の身分で蘭学の諸同志と交流した。文政11年、シーボルト事件で連座を免れた。嘉永2年、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言し、オランダ商館を通して入手。安政5年日、大槻俊斎・戸塚静海らと図り江戸に種痘所(お玉が池種痘所)を開設、弟子の池田多仲を同所の留守居とした。同年、江戸幕府第13代将軍・徳川家定の脚気による重態に際し、漢方医の青木春岱・遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海とともに幕府奥医師に挙用。文久3年、緒方洪庵が死去すると、後任の頭取に松本良順が就いた。松本良順の弾劾により玄朴は失脚、小普請入りとなる。元治元年、寄合医師に昇格。明治4年、死去。墓は東京都台東区谷中の天龍院。大正4年、大正天皇即位の礼に際して従四位を贈られた。妻は長崎のオランダ語通詞・猪俣傳次衛門の長女・照。婿養子の伊東方成(玄伯)は、明治天皇の侍医。