赤尾 清長(あかお きよなが)

赤尾 清長写真師台紙鶏卵紙

富山において最も古い写真師という。初代・鈴木真一の門人。
明治21年、出火全焼。吉田好二は鈴木真一の孫弟子ということが判明しており、吉田好二と交流があったことも記載されているため、弟子であったと思われる 。

富山藩士の富山赤尾氏は「清」の字を代々使用しているが、赤尾清長がその系統か特定できていない。富山赤尾氏は出雲京極家に仕える赤尾清正の娘・勝野が徳川秀忠の次女である珠姫(天徳院)が3歳で加賀藩主前田利常に輿入れした際に召し出され仕えた。前田利次(利常の次男)が生まれると傅役を任され、寛永16年、利次に富山藩10万石が分藩されると富山城に移り、富山藩の奥を創設し、御広式を整備して奥女中を束ねた。30人扶持と金50両が給された。勝野の父・三右衛門清正も寛永17年(1640年)に前田利次に仕え(500俵・銀100枚)、長兄の弥三左衛門(後に三右衛門)清治(500石)は寺社奉行・町奉行、次兄の覚太夫清長(200石、後に50石加増)も寛永16年に利次の御馬廻として仕え、後に呉服御土蔵奉行などを務めた。清長の子覚太夫清貞は前田正甫の小姓である。勝野は延宝8年(1680年)に兄清治の孫の甚左衛門清房を養子に迎える(5人扶持・金10両)。清房は御手廻組・御広聞番を勤め、貞享2年(1685年)に勝野の跡を継いだ。清房の妹は前田正甫の側室となり、天和2年(1682年)8月1日に富山で蘭姫を産むが翌年7月2日に夭折、清房の妹は城を出て奥村杢左衛門具頼(400石、寺社奉行や宗門奉行を歴任)に嫁した。勝野は貞享2年に没したが、赤尾三家はそれからも富山藩主の側近くに仕え、廃藩置県を迎えている。

生年/出身:

開業年: (明治20年頃)

開業地、主要拠点: 富山

師匠: 鈴木 真一(初代)

弟子: 吉田 好二