
明石氏は、明石竜映の末孫と伝わる。外祖父は蘭方医・松本松翁。祖父・明石弥平善方も蘭学に通じていた。父は明石弥平高善、母は浅子。幼名・弥三郎。実名・博人。字・博高。号・静瀾、万花堂主人。
京都四条通堀川西入唐津屋町の医薬商の家に生まれた父の明石弥平高善が早く他界したため、外祖父・松本松翁に育てられた。のち、三条柳ノ馬場に住んでいたと伝わる。国文や歌学を僧・忍向、五十嵐祐胤に学び、儒学を神山四郎に学ぶ。医学については、祖父・明石弥平善方や柏原学介から学んでいる。文久年間、辻礼輔から写真術を学ぶ。文久 2 年、堀真澄(初代)に写真術を教えている。慶応元年、辻礼輔を撮影(湿板写真)。慶応元年、師であった新宮涼閣と「京都医学研究室」を創設し、本格的に医学と化学の研究をはじめる。慶応 2 年、「煉真舎」を創設。理科学、薬学を研究。有馬温泉や京都周辺の鉱泉の成分分析等を試みた。明治 2 年、大阪病院を創設し薬局主管となる。医師はハラタマ、ボードインなどを海外から招へい。また、大阪舎密局でハラタマのもとで助手も務めた。明治 3 年、京都府が京都舎密局を創設。写真の研究を行う。ヘールツ(オランダ人)、ワグネル(ドイツ人)の指導により理化学研究と教育が行われ、京都の伝統産業(陶磁器、織物、染色)や、石鹸、ビール、七宝、ガラス製造などの研究が行われた。明治 7 年、京都で日本最初の医師免許試験の実施を提言。明治 8 年、御池木屋町でドイツ人医師らによる診療を開始。明治 8 年、この地にあった粟田口青蓮院宮(久邇宮朝彦親王)旧邸を修築して仮病院を設立。診療と医学 教育を開始。明治 13 年、河原町広小路に移転(大正 13 年、京都府立大学附属病院となった。)。明治 14 年、京都舎密局は、植村知事の転任に伴い廃止。府を退いて実業界に入り、後に医業に専念。療養所、病院、製糸場、製紙場、養蚕場、牧畜場などの創設、文化財の保存、博覧会の開催などにあたり、多くの京都の殖産興業、文化事業に尽力した。大型暗箱を携えて近畿地方を撮影した「撮影須知」が残っている。明治 43 年、死去。
明石博高の3男・明石国助(明石染人)は、京都市立美大の講師,文化財保護委員会専門委員などをつとめ、明治末頃からこけしを集め、産地訪問やこけしの頒布会までを行った最初の人であったという。
生年/出身: 1839 京都(四条通堀川西入唐津町)
開業年:
開業地、主要拠点: 京都
師匠: 辻 礼輔
弟子: 堀 真澄(初代)