吉田 好二(よしだ こうじ)

吉田 好二写真師台紙鶏卵紙金沢

鈴木真一の孫弟子にあたることは判明しており、師匠はおそらく赤尾清長と思われる。兄は村沢伝左衛門。村沢家から吉田千右衛門の養子となった。 石川県写真史の引用する由緒帳(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵)には、吉田家は代々鉄砲足軽の家柄だったとある。本名は吉田好之助、別名は藤原芳貞。加賀藩割場付足軽、二十俵。文久2年、義父の吉田千衛門が死去し、代 わって割場付足軽となった。慶応 3 年から明治元年にかけて、14 代藩主・前田慶寧が浅野川河畔の現常磐町から卯辰山帯にかけて、大規模な開発が行われた。その一画、舎密局の横、玉免ケ丘に「写真局」と称した施設が設けられた。写真局は明治 4 年まで存続している。 舎密局の責任者には高峰精一、係員に吉田好二旗文次郎遠藤虎次郎丘村隆桑の名が残っている。 慶応 4 年、御軍艦方留書を命ぜられるが、病気のため辞退。明治 2 年、藩から他国修業を命ぜられ、写真術を学ぶ。 明治 2 年、卒族に加えられる。 明治 3 年、帰郷し、写真係御用(写真局)に就任。 廃藩後、金沢の観音町に撮影所を開業。後兼六園坂下(石浦神社角)に移る。 明治 24 年頃、浅ノ川大橋の上(御徒町)に移転。富山の赤尾清長とも親交があったという。

生年/出身: 石川(金沢)

開業年: 1868(明治初年 )

開業地、主要拠点: 石川(金沢公園)

師匠: 赤尾 清長

弟子: 遠藤 虎次郎 丘村 隆桑