田中 盛之助(たなか もりのすけ)

チェンマイの写真師・田中盛之助写真館タイ

「せいのすけ」と書かれた資料もあるが誤り。除籍謄本には田中森之助と誤記されているため「もりのすけ」と比定。 薩摩郷士の家系。祖父は田中十蔵。父は田中市右衛門。母は湯田喜左衛門の三女・湯田タミ。明治26年頃、鹿児島天文館(明時館)にあった写真館で勤務。明治29年、薩摩藩士で実業家の有川矢九郎の息子・有川九介の金銭的な援助を受け、台湾で写真術を学んだ。明治34年、中国廈門に移動。明治35年頃、タイ(シャム王国)宮廷付きのドイツ人写真家「ロバート・レンズ」のバンコクの写真館に弟子入り。この頃、磯長海洲のもとで学んでいた形跡があり、連名の写真台紙がある。
なお、磯長家(磯永家)は代々鹿児島天文館に関わった暦学者の家系で、祖父(磯永孫四郎周徳)は市来四郎の実父・寺師正容 の門人である。
明治40年、 シャム(タイ)から留学生の少年二人を連れて、鹿児島に帰郷。 明治40年、「並木里う」と結婚し、再びバンコクへ渡り、写真業を開業。明治42年頃、ランパンの王に依頼され、ランパンに写真館を移転。明治44年、写真館 「チェンマイ・フォト・スタジオ」 をチェンマイに移転。大正3年、タイ人の女性「メデー」と結婚。メデーとの娘(日本名:千恵子)は、弟子の 波多野章三の弟「 波多野秀 」と結婚。波多野秀は娘婿となり、「チェンマイ・フォト・スタジオ」を継承した。昭和36年、死去。

なお、 波多野章三は明治 43 年、磯長海洲のバンコクの写真館を受け継いでいる。 また、波多野章三の妻は、磯長海洲が上海で出会った「菱倉ハル」の縁者で、 磯長海洲らが連れてきた「菱倉イソ」という女性。 磯永孫四郎周徳 「せいのすけ」と書かれた資料もあるが誤り。除籍謄本には田中森之助と誤記されているため「もりのすけ」と比定。 薩摩郷士の家系。祖父は田中十蔵。父は田中市右衛門。母は湯田喜左衛門の三女・湯田タミ。明治26年頃、鹿児島天文館(明時館)にあった写真館で勤務。明治29年、薩摩藩士で実業家の有川矢九郎の息子・有川九介の金銭的な援助を受け、台湾で写真術を学んだ。明治34年、中国廈門に移動。明治35年頃、タイ(シャム王国)宮廷付きのドイツ人写真家「ロバート・レンズ」のバンコクの写真館に弟子入り。この頃、磯長海洲のもとで学んでいた形跡があり、連名の写真台紙がある。
なお、 磯長家は代々鹿児島天文館に関わった暦学者の家系。祖父は市来四郎の実父・寺師正容 の門人である。
明治40年、 シャム(タイ)から留学生の少年二人を連れて、鹿児島に帰郷。 明治40年、 「並木里う」と結婚し、再びバンコクへ渡り、写真業を開業。明治42年頃、ランパンの王に依頼され、ランパンに写真館を移転。明治44年、写真館 「チェンマイ・フォト・スタジオ」 をチェンマイに移転。大正3年、タイ人の女性「メデー」と結婚。メデーとの娘(日本名:千恵子)は、弟子の 波多野章三の弟「 波多野秀 」と結婚。波多野秀は娘婿となり、「チェンマイ・フォト・スタジオ」を継承した。昭和36年、死去。

なお、 波多野章三は明治 43 年、磯長海洲のバンコクの写真館を受け継いでいる。また、波多野章三の妻は、磯長海洲が上海で出会った「菱倉ハル」の縁者で、 磯長海洲らが連れてきた「菱倉イソ」という女性。

生年/出身: 1875 鹿児島(伊敷村上伊敷3641)

開業年:

開業地、主要拠点: 海外(タイ・チェンマイ)

師匠: 磯長 海洲

弟子: 波多野 章三