磯長 海洲(いそなが かいしゅう)

磯長 海州タイ写真館バンコク台紙鶏卵紙
磯長海洲

「磯永海洲」と書かれた資料もある。先祖や血縁のほとんどが「磯永」の字を用いているが、もともとは磯長であったという。薩摩藩士。磯永家は代々薩摩藩の天文方であった。磯長氏は、河内国南河内郡の磯長村の出自であり、室町期に四国を経由し、鹿児島小根占村に移ったという。天文年間、磯永和泉守吉長の頃にポルトガル船との貿易で富を得た。磯永和泉守吉長から数えて五代目の磯永孫四郎周英が、本家から独立し鹿児島城下に移り、ここから暦学者の家として続くことになる。磯永孫四郎周英の門人・水間良実は、薩摩藩の天文館「明時館」初代暦正になっている。磯永孫四郎周英の子・磯永孫四郎周経は「天文図略説」「円球万国地海全図」などの書物が残っている。磯永孫四郎周経の子・磯永孫四郎周徳が磯長海洲の祖父にあたる。 磯永孫四郎周徳は、長崎海軍伝習所などで学んだ儒学者で、寺師正容(市来四郎の実父)の門人であった。 島津斉彬の「集成館事業」にも関わったという。 磯永孫四郎周徳の妻・シズは、樺山資紀(薩摩藩士・海軍大将)の姪である。
父(磯長吉輔)の弟に後にカリフォルニアに渡り「ワイン王」と呼ばれるほど成功した長沢鼎(本名は磯永彦輔)、金融業で成功した赤星弥之助(磯永弥之助)がいる。 赤星弥之助の子に赤星鉄馬(泰昌銀行頭取)、赤星四郎、赤星六郎(ともにゴルフ界で活躍)がいる。

父・磯長吉輔、母・磯長キエの長男として生まれる。
農科大学駒場学校(現・東京大学農学部)を中退し、山形県農事講習所で幹事兼教師を務める。 明治22年頃、川邊キノと結婚。(双子の娘が生まれるが、明治26年に離婚している)

明治 23 年、上海で日清貿易協会(代表は実業家・荒尾精)の設立に参画するが実現せず、上海に残った。 写真師・上野彦馬の写真館(上海支店)で 3 年間写真撮影に従事。 明治 27 年、独立し上海で写真館を開業するが日清戦争がはじまったため、シャム王国(タイ・バンコク)に移る。タイ移住の直後に波多野章三と出会っており、写真館のための物件探しを手伝っている。明治28年、バンコクの英国公使館前に磯長照相館を開業。波多野章三は磯長照相館を手伝い始める。
明治 39 年、セントルイス博覧会を視察した際に帰途中で日本に立ち寄り、写真師・鈴木真一(2 代目)か ら陶器写真の技法を学ぶ。 この頃、 田中盛之助と連名の写真台紙が残っている。 田中盛之助はバンコクに来てすぐ磯長海洲のもとで学んだ形跡がある。

明治 43 年頃、田中盛之助(チェンマイで写真師となった)の弟子・波多野章三に写真業を譲り帰国。また、波多野章三の妻は、磯長海洲が上海で出会った「菱倉ハル」の縁者で、 磯長海洲らが連れてきた「菱倉イソ」という女性。大正5年、メキシコに渡っている。大正6年、ハワイに渡っている。大正7年頃、故郷鹿児島に戻る。大正 14 年、下宿先の別府市大字別府2139で自殺した。

なお、田中盛之助は 明治26年頃、鹿児島天文館(明時館)にあった写真館で勤務していたという。波多野章三は大正3年、弟の波多野秀を呼び寄せ、波多野秀 は田中盛之助の娘婿となり、 田中盛之助の写真館を継いだ。

生年/出身: 1860 鹿児島(薩摩)

開業年: 1894

開業地、主要拠点: 海外(中国・上海)、海外(タイ・バンコク)

師匠: 上野 彦馬 岡本 圭三

弟子: 波多野 章三 田中 盛之助