広瀬 淡窓(ひろせ たんそう)

通称は広瀬寅之助、広瀬求馬。諱は広瀬建。字は広瀬廉卿、広瀬子基。別号は広瀬青渓。 末弟に広瀬旭荘。 豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の長男として生まれる。 寛政 3 年頃、久留米の浪人・松下筑陰に師事し、詩や文学を学んだ。 寛政 6 年頃、松下筑陰が佐伯藩毛利氏に仕官したため師を失った。 寛政 9 年頃、筑前国の亀井塾に遊学し亀井南冥・ 亀井昭陽父子に師事。寛政 12 年頃、病により退塾し帰郷。 肥後国の医師・倉重湊の勧めで学者・教育者の道を選ぶ。 文化 2 年、豆田町の長福寺の一角を借り、塾を開く。上野 俊之丞上野彦馬もここで学んでいる。後の桂林荘・咸宜園へと発展し、入門者は延べ 4,000 人を超える日本最大級の私塾となった。安政 3 年、死去。大正 4 年、贈正五位。

写真術を研究していた時期がある武谷掠亭は月形鷦窠、広瀬淡窓に儒学をんでいる。
写真師・森山三郎の妻・狭間櫪の父は狭間畏三(福岡県都郡苅田町)といい、行橋市稗田の私塾・水哉園、咸宜園(広瀬淡窓)で学び、神代帝都考などを出版し、福岡県議員を務めた人物。

生年/出身: (天明 2 年 ) 大分(豊後国日田郡豆田町魚町)

開業年:

開業地、主要拠点: 大分(豊後国日田郡豆田町魚町)

師匠:

弟子: 上野 俊之丞 上野 彦馬