宮津 賢次郎(みやづ けんじろう)

宮津賢次郎写真師台紙鶏卵紙

父は水野龍淵。水野家は代々医師の家系であった。天保14年、生まれる。
長男は水野承平、二男は水野賢次郎、三男は水野春造、四男は水野義一。水野龍淵は画家として活動した形跡もある。母は中野氏。

郷里で医師として活動をする。のち郷里を離れ東京などに行く。
同村の新美彌四郎氏の娘と結婚、養子となり新美賢次郎と名乗る。名古屋に移住し、西洋医術医師であった伯叔の中野隆輔、中野春載のもとに住んだ。元治元年、名古屋を去り、飯沼慾齊の門に入る。医師として岐阜大垣、伊勢などを経て、桑名三崎町に移住。明治元年、鳥羽伏見の戦いで徳川軍の軍医。二十人扶持を与えられている。また、盛岡藩主三戸式部に従い盛岡にも行っている。守田来蔵久世治作などに写真術を学んだとされる。明治2年以前に大阪で写真師として活動している。明治5年または明治6年、桑田正三郎は神戸で横田朴斎から写真術を学んだのち、京都までの帰路で大阪に立ち寄り、大井卜新宮津賢治郎葛城思風田村景美石橋松之助和田猶松石川文右衛門等に会い写真術の研究を重ねた。明治6年、愛知新聞に名古屋の写真師としての広告が掲載されている。のち大阪堂島で米穀仲買人となり、実業界に転じ、第六十四国立銀行頭取など歴任。

明治21年、宮津賢次郎履歴(樋口守之(岐阜県士族)著)が出版されており、詳しい経歴がある。その中では明治7年に大阪で写真業を行ったと記載されている。

生年/出身: 1843 愛知(尾張国知多郡宮津村)

開業年: (明治2年以前)

開業地、主要拠点: 大阪(北地)、愛知(名古屋京町通2丁目南)

師匠: 久世 治作 守田 来蔵 飯沼 慾斎

弟子: