飯沼 慾斎(いいぬま よくさい)

Yokusai_Iinuma

名は守之、のち長順。字は龍夫、幼名は本平。引退後の号は慾斎。 三重県亀山市西町の西村信左衛門守安の次男に生まれる。 父母ともに美濃大垣出身であったが、父母は亀山にいた弟・西村源兵衛守城方を頼って亀山青木門近くで 働いていた。 母方の親類である大垣の医師・飯沼長顕(叔父)に学び、さらに京都の福井丹後守に入門。 福井丹後守(福井榕亭)は、福井楓亭の長男で侍医、正四位上の人物。 飯沼長顕の嫡女・志保と結婚し、嗣子となった。 文政 11 年(12 とも)、弟子の浅野恒進と今村葬所(現大垣市本今町)で屍体の解剖を行っている。 文化元年、京都で本草学の大家・小野蘭山に入門。 文化 3 年、蘭方医・宇田川榛斎(宇田川玄真)に入門し蘭学を修める。 文化 12 年、大垣に戻り、再び医業に当たる。 天保 3 年、家業を義弟に譲り、自らは大垣長松に別荘「平林荘」を築き、研究・著述に没頭。 「リンネ」の植物分類法を最初に採用した『草木図説』を出版。70 歳を越えてから門人とともに写真術の 研究をはじめた。安政6年、大垣藩舎密局において鉄砲火薬製造の任を命ぜられる。蘭書によってダゲレオタイプ(銀板写真)の実験を試みる。文久2年頃、コロジオン湿板(ガラス湿板写真)に成功。慶応元年、死去。弟子を経由し、一族から小島柳蛙小島光隆納屋才兵衛飯沼長蔵らの写真師が輩出。

箕作阮甫(広川晴軒の師)は、津山藩士で、宇田川玄真(飯沼慾斎、工藤謙同(工藤孝の父)の師)などに蘭学を学んだ。
箕作秋坪は、箕作阮甫の弟子で婿養子となり、のち緒方洪庵の適塾にて蘭学を学んだ。岸田吟香宇田川興斎宇田川準一などと関わっている。

生年/出身: (天明 2 年) 三重(伊勢国亀山西町)

開業年:

開業地、主要拠点: 岐阜(大垣)

師匠:

弟子: 久世 治作 宇田川 興斎 宇田川 準一 宮津 賢次郎