米林 八十八(よねばやし やそはち)

米林 八十八

隠居後の号は一光。文化十年金沢にて生まれる。明治11年に石川県に提出した身上書が残っており、その時点での住居は「石川縣下第拾大区小八区南町四拾五番邸」。文政10年、紙細工師・北隅半蔵に入門。文政12年、京都五条通橋下の奇物師・中村屋弁吉(写真師・大野弁吉)に入門。番頭を務め、共に移住していた。

文政13年、大野弁吉とともに帰郷し、石川郡大野村に移る。天保6年まで大野弁吉のもとで学んだ。天保6年、4月江戸へ出て、外神田金助町の従弟・米林峯吉のもとに居住。神田の大道具仕掛師・長谷川勘兵衛に入門。

なお、長谷川勘兵衛は歌舞伎大道具師の家系で日本橋の宮大工であった1世は、江戸の歌舞伎各座の大道具を専門に明暦の頃から活躍しており、米林八十八の師匠は14代、または15代と思われ、その頃の長谷川は舞台機構の改良,仕掛物の工夫に手腕を発揮し、戸板返し、ちょうちん抜け、宙乗りなどを生み出している。

天保6年、10月頃より米林峯吉のもとで人形細工並根付彫工等を行っていたが、まもなくして金沢上堤町に帰郷し奇物師として活動をする。嘉永2年、能登国七尾府中町の旅籠商船蔵屋與三右工門のもとで時計修復業を行っている。のち、能登国宇出津尾山屋源右工門のもとで時計修復業を行っている。のち、能登国宗玄引山で人形等修復業を行っている。 

のち金沢に戻り、文久2年から3年頃、雷管製造販売などを行う。藩御用器械師となる。 改めて大野弁吉に入門して写真術を学んで小池兵治に伝授した。明治初期、硝子店を開く。明治4年、長男が「米林八十八」を名乗り家督を継いでいる。明治 9 年、仲町に写真館を開業。明治 22 年、死去。大野弁吉の号「一束」、米林八十八の号「一光」については、フリーメーソンの影響があったという意見もある。

生年/出身: 1813 石川(金沢)

開業年: 1876

開業地、主要拠点: 石川(金沢仲町)

師匠: 大野 弁吉

弟子: 小池 兵治