【古写真関連資料】幕末から明治初期、日本における写真黎明期

写真機

(ウィキペディア参考)

銀板写真が発明されたのは1839年であるが、その4年後の1843年にはオランダ船により長崎に日本最初の写真機材が持ち込まれている。当時長崎の御用商人で蘭学者あった上野俊之丞上野彦馬の父)は、その機材をスケッチしているが、機材自体は持ち帰られた。

1848年には島津斉彬が銀板写真機材を入手し、市来四郎らに研究を命じているが、銀板写真は薬剤の調製が難しく、市来および、薩摩藩士宇宿彦植右衛門が写真撮影に成功したのは1857年9月17日と言われている。

なお、1850年にサンフランシスコで撮影された、栄力丸乗組員(ジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵ら)の写真が、「日本人を撮影した写真」としては最古とされている。

1852年にアメリカを出港したマシュー・ペリーの艦隊には、写真家のエリファレット・ブラウン(Eliphalet M. Brown, Jr.)が加わっていた。ブラウンはダゲレオタイプ(銀板写真)の技術によって人物や日本各地の風景を撮影した。そのうち人物写真6点が現存しており、日本最古の写真とされる。横浜に近い石川郷(横浜市中区石川町)の名主は、ブラウンが「写真鏡」を用いて撮影をおこなった様子を記している。

1860年の始め、もともと中国で写真館を経営していたオリン・フリーマンが横浜で日本最初の写真館を開いた。翌1861年、フリーマンの機材一式を購入した鵜飼玉川が江戸薬研堀で日本人による最初の写真館を開いた。日本の写真の祖として知られる上野彦馬は、長崎医学伝習所で化学の視点から写真術の研究を行っていたが、来日したネグレッティ&ザンブラ社(Negretti and Zambra)の特派員でプロの写真家であったピエール・ロシエから、本格的に湿式写真を学んだ。1862年には長崎に上野撮影局を開業するが、ここで撮影された坂本龍馬の肖像写真は有名である。同年には、横浜在住のアマチュア写真家であったジョン・ウィルソンの機材を譲り受けた下岡蓮杖も写真館を開業している。1863年には堀与兵衛(大坂屋与兵衛)が京都の寺町通に写場を開設し、1864年にはロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチから学んだ木津幸吉が箱館で、上野の弟子である富重利平も1866年に柳川で開業した。その後、彼は熊本に移り、西南戦争の跡や、熊本の風物、人物を撮影している。島霞谷も幕末の1862(文久2)年頃に江戸下谷で写真館を開いており、妻の島隆は日本最初の女流写真家となった。

1867年に市田左右太が京都で写真館開店(1870年に神戸へ進出し、1882年に元町に移転)。1868年(慶應4年)には横山松三郎が江戸両国に写真店を開業し、その後上野に移り「通天楼」と号して営業した。同年、上野彦馬の弟子の内田九一が大阪で写真館を開き、横浜・東京にも進出して、1872年に宮内省御用掛の写真師第1号として明治天皇の肖像写真を撮影し有名になった。 同じく慶應4年の新聞には呉竹亭と名乗る人物の写真術個人教授の広告が登場した。

明治に入り、1870年には神田柳町(現・神田須田町2丁目)に沢崎錦栄写真所が開業する。翌1871年には横山の弟子の北庭筑波(伊井蓉峰の父)が浅草花屋敷に写真館を開き、1874年に鵜飼玉川門下の深澤要橘の写真講座をもとに日本初の写真誌『脱影夜話』を創刊し(のち『ホトグラヒー』『写真雑誌』と誌名変遷[24])、写真ジャーナリズムの先駆けとなった。同じく1871年には北庭の助言で浅沼藤吉が日本最初の写真材料店浅沼商会を日本橋呉服町に創設、1875年には初の国産台紙の製造販売を開始する。1873年には横浜居留地で写真業を営んでいたスチルフリードが有料写真講習を開始し、1874年には下岡の弟子鈴木真一が横浜に写真館を開業した。

幕末・明治初期の写真に大きな影響を与えたのがフェリーチェ・ベアトである。ベアトは1863年から1884年まで日本に暮らしたが、日本の水彩画の技法を取り入れた着色写真で有名である。ライムント・フォン・シュティルフリートも写真術をベアトに学び、写真館シュティルフリート・アンド・アンデルセン(「日本写真社」とも)を作った。ベアトの弟子の日下部金兵衛が発売した螺鈿細工や蒔絵を表紙に施した豪華なアルバムは、「横浜写真」と呼ばれ、有力な輸出商品となった。彼らの写真にはヌード写真もあったし、日本人の好事家用のポルノ系ヌード写真もあった。

明治9年(1876年)、日本における最初の写真版権保護に関する立法が、写真条例として制定された(明治9年太政官布告90号)。その第1条には「凡ソ人物山水其他ノ諸物象ヲ写シテ願出ツルトキハ五年間専売ノ権ヲ与フヘシ之ヲ写真版権と称ス」とある。同年、横山を教官に、陸軍士官学校で写真教育が開始され、横山は1878年に日本初の空撮を行なった。1882年には銀座で写真館を経営していた二見朝隈の支援で深沢要橘が『写真新報』を創刊した。

1883(明治16)年に東京・浅草の写真師江崎礼二がイギリスから輸入したジョゼフ・スワン考案のゼラチン乾板を使って、隅田川での海軍による水雷爆発の瞬間を撮影した。それまでのコロディオン湿板法での撮影には秒単位の露出が必要で、なおかつ撮影現場で感光板を調製しなくてはならなかったのに対して、これは感光度が圧倒的に早く、撮影対象が大幅に拡大したことと、撮影現場での暗室を不要とした工業生産品であることの2点によって革新的であった。このゼラチン乾板の登場により、高度な知識と技術的熟練を要した写真撮影が容易になり、専門家である写真師だけでなく、一般の愛好家も増えていった。

明治20年(1887年)、写真条例が廃止され、写真版権条例が制定された。写真版権条例(明治20年勅令79号)では写真とは「凡ソ光線ト薬品トノ作用ニヨリ人物器物景色其他物象ノ真形ヲ写シタルモノ」をいい、写真版権は写真を発行してその利益を享有する権をいった(第1条)。写真版権は写真師に属し(第2条)、人物写真以外の写真は版権登録が保護の要件とされた(第3条)。保護期間は登録の日から10年(第6条)。明治32年著作権法の制定とともに廃止された。1889年には、当時の有名写真師や在日外国人の写真愛好家などにより、日本初の写真団体日本寫眞會が発足した。

明治27年(1894年)、日清戦争において陸地測量部従軍写真班の小倉倹司が、従来の乾板に代わりフィルムを使用した撮影を行った。これが日本におけるフィルム使用の最初ではないかといわれている。

同じく1894年には日本最古の写真専門学校と言われる「写真講習所仮場」が創設され、1902年には「女子写真伝習所鈴木真一)」が設立された。当時写真は西洋の先端的な科学技術であるとともに、人間の思考や社会に深く関わる「知」として日本の社会に受容され浸透していった。

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