【古写真の調査後売却】孝明天皇の女御・英照皇太后

英照皇太后

◆鶏卵紙、写真師「内田九一

◆英照皇太后
孝明天皇の女御。明治天皇の嫡母(実母ではない)として皇太后に冊立された。旧名、九条 夙子(くじょう あさこ)。父は九条尚忠、母は賀茂神社氏人・南大路長尹の娘・菅山。九条道孝の実姉、貞明皇后の伯母にあたる。名は初め「基君(のりきみ)」。山城国愛宕郡下鴨村(現:京都市左京区下鴨)の南大路家で誕生し、弘化2年(1845年)9月14日、12歳の時に、3歳年上の東宮・統仁親王(のちの孝明天皇)の妃となる。結婚翌年には孝明天皇が即位し、嘉永元年(1848年)12月7日に従三位に叙され、同月15日に入内して女御宣下を被る。孝明天皇は夙子の立后を望んだが、先ず准三宮に叙すべしという幕府の反対にあい、嘉永6年(1853年)5月7日、夙子は正三位・准三宮に上る。嘉永3年(1850年)に第一皇女・順子内親王(1850年 – 1852年)、安政5年(1858年)に第二皇女・富貴宮(1858年 – 1859年)を生んだが、いずれも幼児期に夭折したため、万延元年(1860年)7月10日、勅令により中山慶子の生んだ第二皇子・祐宮睦仁親王(当時9歳、後の明治天皇)を「実子」と称した。33歳で夫孝明天皇の急逝に遭い、明治天皇即位後の慶応4年(1868年)3月18日、皇太后に冊立。皇后を経ずして皇太后となった。東京奠都後、明治5年(1872年)、赤坂離宮に遷御、明治7年(1874年)に赤坂御用地に移る。明治30年(1897年)1月11日、崩御。享年64(満62歳没)。1月30日に「英照皇太后」の追号を奉られた。同年に大喪の記録として和装本『英照皇太后大喪記事』、『英照皇太后之御盛徳』、『英照皇太后陛下御大葬写真帖』が出されている。御陵は京都市東山区今熊野の後月輪東北陵(のちのつきのわのとうほくのみささぎ)で、孝明帝と同所である。なお、京都大宮御所は、彼女のために慶応3年(1867年)造営されたものである。孝明天皇の影響からか能を好み、明治11年(1878年)には青山御所に能舞台が建てられている。 明治14年(1881年)に誕生した日本最初の能楽堂「芝能楽堂」も、皇太后の鑑賞に供することが設立目的の一つだった。皇太后からの注文は時に本職の能楽師をすらたじろがせるほど「渋い」もので、当時名人と併称された梅若実と宝生九郎の2人にそれぞれ同じ曲を舞わせ、その芸の違いを楽しんだこともあった。

◆内田 九一(うちだ くいち)
医療器械薬種を業とした内田忠三郎の子。 本名・諱は「重」 弘化元年、長崎銅座町(または長崎万屋町)に生まれる。 生年については、死亡を知らせる記事(明治 8 年 2 月付読売新聞など)に、享年 32 歳とあるため、逆算 による。 嘉永 6 年、父が亡くなる。 安政 5 年、母が亡くなる。 万延元年、叔父の長崎萬屋町の医師・吉雄圭斎に引き取られた。 吉雄圭斎の家に育てられ、松本良順の庇護を受け、医学伝習所のポンペに写真術の手ほどきを受けた。吉雄圭斎は出島のオランダ商館出入り医師。のち熊本病院初代院長。名は種文という。 松本良順は幕府の奥医師、医学校頭取、海陸軍医総長をつとめた後、明治新政府下でも陸軍軍医総監をつ とめた重要人物。 松本良順の自伝 『蘭疇』に、内田九一が登場する。 それによると、吉雄圭斎は嘉永元年、オランダの医師モンニッキから種痘法を学んだ。しかし当時は信じ る人がなく、仕方なく自分の親戚二人(当時 4 歳の内田九一と妹の内田菊)に試みて成功した。2 人は両 親が早く亡くなり、九一は松本良順に、菊は吉雄圭斎の下に育てられた。妹の菊は後に長崎大黒町の品川 家の品川徳太に嫁いでいる。 松本良順は長崎でオランダ軍医のポンペに医学を学び、写真にも関心を持つ。この頃、ポンペや前田玄造 らに写真の実技を教えた写真家は、スイス人ピエール・ジョセフ・ロシエであった。 前田玄造は、藩主・黒田長溥から写真術の研究を命じられており、ロシエから湿板写真の実技を習得して いる。その前田玄造の技法に関心を示したのが、松本良順の下で手伝いをしていた内田九一であった。 内田九一は舎密試験所で前田玄造に、後に上野彦馬に写真術を学んだ。 慶応元年、写真業を始めるにあたって、永見伝三郎の尽力を得たとされている。 永見伝三郎(永見英昌)は、のちに第十八国立銀行初代頭取となった人物。 薩摩藩御用商人・永見伝三郎の永見家は、代々長崎会所の御用商人で資産家であり、内田九一の姉(セイ、 エイとも)は、分家で大光寺前の今籠町二十九番地で穀物問屋を営んでいた「永見榮治」に嫁いでいる。 慶応元年、上野彦馬の弟上野幸馬を連れて長崎から舟で、途中は写真を写しながら路銀を稼ぎ、まず神戸 まで来てそこで写真撮影の活動を始めたようである。 このとき、市田左右太(初代)葛城思風森川新七田村景美らに写真術を教えたという。 最初、大阪石町(大阪天満)で小曾根正雄の経営する写真館で写真技師として雇われ、撮影に従事してい たという。小曾根正雄は 長崎の貿易商に小曾根家当主・小曾根乾堂の弟で、後に京都東町奉行・大久保 主膳正忠恕の家臣として幕臣に連なったが、鳥羽伏見の戦いに於いて戦死した人物。 慶応元年、大阪天満橋石町で写真業を開業、多くの志士を撮影した。 後に大阪鎗屋町(上町鎗屋町)へ移転。 慶応元年頃、元芸子の「おうた」と結婚。 慶応 2 年、江戸へ出る。 明治 2 年、石川新助の協力で横浜馬車道通で写真業を開業。 明治 2 年、東京浅草瓦町に支店(九一堂万寿)を創設。 政府高官、俳優、遊女等を撮影し、土産写真として販売も行う。 明治 4 年、横山松三郎と共に旧江戸城を撮影。 明治 4 年、明治天皇、昭憲皇后、英照皇太后を撮影し盛名を得た。 明治 5 年、明治天皇の西国巡幸に同行し各地を撮影。 明治 8 年、死去。 明治 13 年頃、内田九一の妻・おうたは、に蛎殻町の米商人・島田慶助と結婚し、門人・山際長太郎を伴 い、順慶町心斎橋東に写真業と写真材料商を兼業し「内田写真館」の名跡を継ぐ。 明治 14 年、北庭筑波が内田九一の名を残すため、浅草の旧写真館を買い取り「旧内田舎」と名付け再業。 明治 18 年、北庭筑波の「旧内田舎」廃業。 明治 22 年頃、山際長太郎の「内田写真館」廃業。 養子の内田總一は陸軍の軍馬医。

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