【古写真関連資料】坂本龍馬の妻・楢崎龍(お龍)の肖像写真

楢崎龍2
「楢崎龍ではない」と断定された写真

◆写真師 内田九一
肖像は楢崎龍 ではなく、土井子爵家の妾であると判明。

◆楢崎 龍
(ならさき りょう、天保12年6月6日(1841年7月23日) – 明治39年(1906年)1月15日)
江戸時代末期(幕末)から明治時代の女性。名は一般にお龍(おりょう)と呼ばれることが多い。中川宮の侍医であった父が死んで困窮していた頃に坂本龍馬と出会い妻となる。薩長同盟成立直後の寺田屋遭難では彼女の機転により龍馬は危機を脱した。龍馬の負傷療養のため鹿児島周辺の温泉を二人で巡り、これは日本初の新婚旅行とされる。龍馬が暗殺された後は各地を流転の後に大道商人・西村松兵衛と再婚して西村ツルを名乗る。晩年は落魄し、貧窮の内に没した。

お龍の写真は、明治37年(1904年)12月15日付「東京二六新聞」に掲載された晩年の写真が唯一の真影である。この写真は、お龍宅を訪ねて聞き書き(『反魂香』、『続反魂香』、『維新の残夢』)を著した安岡秀峰が撮影したもので、明治33年(1900年)に雑誌『文庫』に掲載された『続反魂香』の末筆で掲載を予告していたものである。

楢崎龍
楢崎龍 、唯一の写真(明治37年「東京二六新聞」)

『続反魂香』の末筆で安岡が「現今のお良婦人は、今回を以て初めて写真したるなれば、是おそらく天下の絶品ならむ」と述べていたこともあり、若い時代のお龍の写真は存在する筈がない。

ところが、昭和54年(1979年)に近江屋井口新助家のアルバム(中井弘旧蔵写真アルバム)から発見された女性の立ち姿の写真が公表され、また、『セピア色の肖像 幕末明治名刺写真コレクション』(井桜直美著、朝日ソノラマ、2000年)に掲載された椅子に腰かけた女性の写真もお龍の写真とされた。二枚の写真は一見して同一人物のもので、浅草大代地の内田九一の写真館で撮影されたことが判明している。

新たに発見された写真には否定的な意見も多く、真影か否かは判然としなかった。平成20年(2008年)に高知県立坂本龍馬記念館が警察庁科学警察研究所に鑑定を依頼したところ、座り姿の写真と晩年の写真とをスーパーインポーズ法により比較した結果、「同一人物の可能性がある」との鑑定結果が出された。

しかしながら、これは平成8年(1996年)10月10日に「ソニー坂本龍馬研究会」の釜谷直樹が『お龍二枚の写真』として画像分析した時の方法と全く同じであり、この時も「コンピューターによる画像処理とその結果」を報告書にして作家・坂本龍馬研究家の宮地佐一郎に提供されている。この時は全身像の写真を左右反転して拡大し、顔の傾きなどを晩年の真のお龍の写真と同じように修正して、二枚の写真を比較検討しており、このやり方は科学警察研究所と全く同じ方法である。

そして、科学警察研究所は「顔の輪郭と耳、目、口などの配置は二枚の写真のものはきわめて似ている。これらの写真からは同一人物の、若い日と晩年のものであるといっても特に矛盾は生じないように思われる」として、「両者は同一人物と判定できうるもの」と結論付けているが、これも元慶應義塾大学理工学部准教授の高橋信一の研究により鑑定方法として間違っていると指摘されている。

このような経緯で、それまで座り姿の写真が「若き日のお龍の写真」として扱われるようになっていたが、科警研の人物比定方法に問題があるため、この写真はお龍の写真ではないと結論付けられた。また、木戸孝允や伊藤博文の愛人だった江良加代ではないかとする説もあるがこれも誤りである。

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平成25年(2013年)、日本軍装研究会の平山晋が都内の古書店で、若き日のお龍とされた女性と同じ人物が写された名刺判写真を発見した。平山が発見した写真に写る女性は、座り姿の写真と同じポーズを取っており、片手の位置が違うだけの同一人物であるため、このことからも「若き日のお龍の写真」はお龍とは別人の写真であることが判明した。さらに、全身像の写真についても、他の複数の女性とコラージュされた名刺判写真が存在し、この写真の裏書には、この女性は「土井奥方」と記されているため、のちに土井子爵家の妾となった女性であることまでは判明している。また、これ以外にもこの女性の写真と同じ写真が数点見つかっている。