
*スチルフィード、スティルフィード、スティルフリート、スチルフィート、スティルフィート、スチル フィート、 シュティルフリード、スチルフリードなど、いくつかの表記ばらつきがある。
◆紺野 治重、武林 盛一、成田 常吉、日下部 金兵衛などが関わっている。
◆シュティルフリート男爵
ライムント・フォン・シュティルフリート
(Raimund Freiherr von Stillfried, 1839年8月6日 – 1911年8月12日)
オーストリアの写真家。父はアウグスト・ヴィルヘルム・フレイヘア・シュティルフリート・フォン・ラテニッツ、母はマリア・アンナ・ヨハンナ・テレジア・ヴァルブルグ・グラフィン・クラム=マルティニッツ。
職業軍人であった父の意向で若くして軍に入ったが、反発して18歳のときに家を飛び出し、世界中を放浪した。この間アメリカで写真術を学ぶ。1860年代の初頭から中ごろにかけ、貿易の仕事で少なくとも2度日本を訪問している。1869年、オーストリアの通商使節と共に再来日、そのまま横浜に居を構えた。横浜でフェリーチェ・ベアトに本格的に写真術を学んだ後、1871年シュティルフリート商事(Stillfried & Co.)という写真スタジオを設立。1875年にはヘルマン・アンデルセンとの共同経営となりシュティルフリート・アンド・アンデルセンと名称変更した。
写真家としては、明治天皇盗撮事件(明治5年元日に明治天皇が横須賀造船所の開所式に行幸した際と言われる)を起こしたり、田本研造の後を受けて開拓使に雇用されて北海道の撮影旅行を行ったりした。また1873年のウィーン万国博覧会や1876年のフィラデルフィア万国博覧会にも作品を出展、国際的にも名前が知られるようになった。1870年代後半に、シュティルフリートはダルマチア、ボスニア、ギリシャへの撮影旅行に出かけている。特徴は彩色写真で、これを蒔絵や螺鈿細工などを施した豪華なアルバムとして、主に外国人向けに販売した。着色技師の一人に、後に写真家として名をなす日下部金兵衛がいた。明治 12 年、 成田 常吉は大蔵省印刷局写真科技生となり、御雇外国人バロン・フォン・スティルフリード(シュティルフリート)から写真術 を学んだ。他にも紺野 治重など多くの日本人写真家を育てた。
1877年、ベアトの資産を受け継いた。1884年に資産の多くを日下部金兵衛に売却し、日本を離れアジアを転々としながらオーストリアへ帰国。帰国後は皇帝付の宮廷画家となった。2009年には修交140年を記念「ウィーン世紀末展」が日本で開催されたが、シュティルフリートの画家としての作品「ザンクト・シュテファン大聖堂」が展示された。なお、シュティルフリート・アンド・アンデルセンは1885年まで営業を続けていた。