
多くの写真師が作品を出品、また受賞をしている。
【幕末・明治の写真師 総覧】データベースを見ると、主に以下の写真師や関係者が関わっている。
長井 輝正(二代)、鈴木 真一(初代)、鈴木 益之助、金井 弥一、野本 桂策、遠藤 誠、豊田 尚一、藤井 保次郎、薛 信二郎、若林 耕、簗 又七、秋山 轍輔、磯長 海洲、白崎 民治、田本 研造、田中 美代治、田中 武、玉村 康三郎、玉屋 松五郎、牧 一造、清河 武安(二代)、清水 東谷、江木 保夫、水野 半兵衛、氣賀 秋畝、森 重一郎、桑田 正三郎、根岸 常義、松崎 晋二、朝倉 **、明石 博高、日下部 金兵衛、平村 徳兵衛、市田 左右太(初代)、工藤 孝、川上 冬崖、島 雪斎、岩橋 章山、岩橋 教章、岡嵜 一直、小谷 荘次郎、小川 一真、小坂 一郎、小倉 倹司、富重 利平、富田 重範、宮内 幸太郎、宮下 欽、堺 時雄、堀 真澄(初代)、堀 真澄(二代)、和田 久四郎(三代)、和田 一郎、北村 太一、佐貫 明、佐藤 三八、伊達 弥助、今井 栄、亀井 茲明、丸木 利陽、中鉢 直綱、中邨 雅朝、中西 美暢、中沢 岩太、中村 才次郎、中島 待乳、上野 彦馬、上田 貞治郞、三輪 ウタ、三苫 利三郎
◆内国勧業博覧会
明治時代の日本で開催された博覧会である。国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的として、東京(上野)で3回、京都・大阪で各1回の計5回を政府主導で開催された。明治時代は近代化促進のために数多くの展覧会が開かれたが、内国勧業博覧会はその中でも代表的な博覧会である。「内国」と付くのは、第一回内国博を主導した大久保利通の意向による。これは国内物産の開発・奨励を第一義の目的としていたという意味もあるが、外国人の治外法権と内地通商権の不許可という事情にもよる。他に、明治期の日本には万国博覧会を開催するだけの国力がまだなかったことも大きい。
明治初期の内国博の役割は、物品を一堂に集めることで優劣を明らかとし、出品者の向上心や競争心を刺激して、産業増進を達成することであった。明治中期日清戦争を経ると、精神的部分に国家的団結の場としての効果が期待された。そのシンボルは天皇であり、明治天皇はしばしば内国博に行幸している。そもそも内国博を開くのは天皇の重要な役割で、第4回を除く開場式に臨幸し勅語を発した。第2回以降総裁・副総裁職が設けられるが、実務は副総裁が担当するものの、総裁には皇族が選ばれた。
しかし、会を重ねるごとに内国博の効果に疑問を持つ人々が増えるようになる。そもそも博覧会の効果は即効性がなく目に見えにくい。そこで博覧会の効果としては副次的であるが、わかりやすい博覧会入場者がもたらす経済効果に注目が集まった。入場者を増やすために娯楽的な会場も増え効果もあったが、内国博の本来の目的である国家を富強に導くプロジェクトとしての色合いが薄まり、興行やお祭りに近い娯楽イベントになっていった。また、20世紀に入ると政府が主導しなくとも、内国博レベルの勧業諸会であれば、地方自治体あるいはその連合体で開催可能となっていたことも大きい。こうなると日露戦争後の財政難の政府には、規模増大を続ける内国博は手に負えない事業となった。第6回内国博に相当する博覧会を「日本大博覧会」の名で開催する勅令が1907年(明治40年)3月に公布されたものの、まもなく延期となり、同年11月には中止が決定した。なお、1907年には東京府主催の博覧会が上野で開催された。

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【第一回内国勧業博覧会】
1877年(明治10年)8月、初代内務卿大久保利通の提案により、内務省の主導で開催された。博覧会の意義は、明治政府として初めて参加した1873年のウィーン万国博覧会によって、関係者の間で認識されていた。半年前に西南戦争が起こり、開催を危ぶむ声もあったが、予定通り実施された。内国博以前にも「博覧会」と銘打ったものは存在したが、その殆どが名宝や珍品を集めて観覧させることが目的の、いわば「見世物」であった。「勧業」を冠していることからも明らかなように内国勧業博覧会は、見世物を明確に否定し、殖産興業推進には必要な欧米からの新技術と日本の在来技術の出会いの場となる産業奨励会としての面を強調した。しかし、多くの人々にとって博覧会とは何か理解されていなかったため、出品物の収集は各府県の出品取扱人による勧誘が行われた。
出品者には他の出品作を見て自作の糧とし、また交易の足掛かりになると実見の大切を訴え、出品者の出京を要請した。出品に伴う運搬費などは、基本的に出品者の負担だったが、大久保は費用の一部を国や府県が援助する法律を成立させた。民間の運送会社も出品物運送費や出品者乗車賃などを約15~40%の割引を行った。特に三菱商会は、荷物運賃の他にも出品者・官吏の往復運賃も通常料金の半額に割引している。これら各社には内国博終了後、政府から賞杯が贈られた。全国から集められた出品物は、前年のフィラデルフィア万国博覧会にならって、鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸の6つに分類され、素材・製法・品質・調整・効用・価値・価格などの基準で審査が行われた。優秀作には賞牌や褒状が授与され、いわば物品調査と産業奨励が同時に行われた。奨励の意味を込めて、出品者のうち約3割が何らかの賞を受けている。この博覧会では紡織産業が多くの割合を占めたが、その中で最高の賞牌、鳳紋賞牌を与えられた臥雲辰致のガラ紡は、博覧会後急速に普及し過渡期の紡績工業に貢献した。
上野公園に設けられた約10万平方メートルの会場には、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ、寛永寺旧本坊の表門の上には大時計が掲げられた。また、公園入り口に造られた約10メートルのアメリカ式の地下水汲み上げ用風車や上野東照宮前から公園にかけての数千個の提灯が掲げられた。入場者数は西南戦争やコレラの流行もあって大久保の予想を下回り、財政的には不成功だと大久保はイギリス公使パークスに語っている。しかし、勧業政策のとして内国博は有用であり、以後の博覧会の原型となった。
【第二回内国勧業博覧会】
1881年(明治14年)
博覧会に合わせて、1881年、上野公園の寛永寺本坊跡に煉瓦造2階建の建物が完成した(現在の東京国立博物館本館の位置)。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計によるもので、会期中は展示館として使用された。博覧会終了後は上野博物館の本館となり、翌1882年3月、明治天皇行幸の下、開館式が行われた。
【第三回内国勧業博覧会】
1890年(明治23年)
【第四回内国勧業博覧会】
1895年(明治28年)、京都の岡崎(琵琶湖疏水の北側の地域)を会場として開催された。京都市の有力者が、平安遷都千百年紀念祭とあわせて、博覧会の誘致運動を進めたものである。博覧会に合わせて、1895年4月に七条から博覧会場まで市電(京都電気鉄道)が開業した(後の京都市電木屋町線・京都市電蹴上線)。博覧会跡地には平安神宮や文化施設が建設された。1903年には、博覧会跡地の市有地を岡崎公園とすることが京都市議会で決議され、1904年に公園が開園した。
【第五回内国勧業博覧会】
第5回の大阪での博覧会は、日本が工業所有権の保護に関するパリ条約に加盟したことから海外からの出品が可能となり、14か国18地域が参加し、出品点数31,064点と予想以上の出品が集まった。この数字は、1900年(明治33年)パリ万博の37か国、1902年(明治35年)グラスゴー万国博覧会の14か国と比べてもあまり遜色なく、事実上小さな万国博覧会とみなしても差し支えないだろう。
博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約2万8千坪は大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)7月3日、「大阪の新名所」というふれこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した。
その後第六回内国勧業博覧会を東京で開催する計画があったが、日露戦争の後、政府の財政が悪化したため、延期されることになった。このため、1907年、東京府主催により東京勧業博覧会が開催され、約680万人が来場した。
◆国際博覧会
国際博覧会条約(BIE条約)に基づいて行われる複数の国が参加する博覧会である。万国博覧会(ばんこくはくらんかい)とも呼ばれ、略称は国際博、万国博、万博(ばんぱく)など。国際博覧会条約によれば、国際博覧会とは「複数の国が参加した、公衆の教育を主たる目的とする催しであり、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは複数の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。」とされている。様々な物品を集めて展示する博覧会(国内博覧会)は1798年、フランス革命の時期のパリで初めて開催された。1849年までにパリで11回開催され、徐々に規模が大きくなっていった。同様の博覧会がベルギー、オランダなど各国でも開催されるようになると1849年、フランスの首相が国際博覧会を提唱し1851年に第1回国際博覧会がロンドンで開催された。
日本に国際博覧会の存在が伝わったのは1853年であると考えられており、別段オランダ風説書を通じてニューヨーク万国博覧会の開催と、前々年の1851年に同様の催しがロンドンでも開催されたことが伝えられた。国際博覧会との直接的な接触が生まれたのは1862年のロンドン万国博覧会からで、公式参加ではないものの、駐日イギリス公使のオールコックが収集した日本の品々が出品されたほか、開幕式には訪英中の文久遣欧使節団が出席し注目を集めた[2]。
日本が初めて参加したのは、幕末の1867年、幕府および薩摩藩と佐賀藩が参加したパリ万国博覧会(第2回)であり、維新後の新政府は1873年のウィーン万国博覧会から公式参加を行った。その前年予行演習として東京の湯島聖堂で日本初の博覧会が開催され、それが東京国立博物館の始まりとなった。明治・大正頃の国際博覧会では日本の芸妓が接待役を務め、この時紹介された浮世絵はモネらフランスの画壇に影響を与えたことは広く知られている。これらが「ジャポニスム」と呼ばれたものである。日本の展示館は1893年のシカゴ万国博覧会(第1回)では平等院風のもの(フランク・ロイド・ライトに影響を与えたという説もある)や1900年のパリ万国博覧会(第5回)では法隆寺風のものなど伝統的様式で建設され、エキゾチックな印象を与えて好評を博したという。また大橋翠石が出品した猛虎の図の絵画は毛並みのリアルさなど東洋的芸術が評価され、優勝金牌を受賞した。しかし1900年のパリ万国博覧会では日本の出品物は酷評されてしまい、明治政府は輸出振興のためにデザインの必要性を認識し『図案』(雑誌)を発行するなど日本の芸術や産業にも大きなインパクトを与えた。
その後ウィーン万博の出展をきっかけに日本は多くの海外博覧会への出展を行い、国内では殖産興業策の一つとして内国勧業博覧会をはじめとして多くの博覧会が開催され万国博覧会開催への気運を盛り上げる事となった。1928年には国際博覧会条約を締結し、博覧会国際事務局(BIE)が設置され日本も調印したが批准せず非加盟国となった。
日本での国際博覧会開催については最初の計画として1885年に西郷従道の提案により1890年開催の「亜細亜大博覧会」があったが実現に至らず、次いで日露戦争の戦勝を記念して1907年には1912年4月から10月にかけて実質的な万国博覧会の計画となる「日本大博覧会」計画を決定しアメリカ等の各国が賛意を示したが、経費増大や準備の遅れから5年間延期され中止となった。その後1940年に東京の月島(晴海)などを会場に紀元2600年記念日本万国博覧会および東京オリンピックを開催すべく準備が進められた。前売り券(10円)も販売され、勝鬨橋は整備の一環で造られた。日中戦争が激化したため、軍部の反対および参加国の減少が確実になったことなどで1938年に延期が決定し実質的に中止となった。
【開催年、開催国】
1851年 ロンドン万国博覧会 イギリス ロンドン
1853年 ニューヨーク万国博覧会 アメリカ合衆国 ニューヨーク
1855年 パリ万国博覧会 フランス パリ
1862年 ロンドン万国博覧会 イギリス ロンドン
1867年 パリ万国博覧会 フランス パリ
1873年 ウィーン万国博覧会 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン
1876年 米国独立百年記念万国博覧会 アメリカ合衆国 フィラデルフィア
1878年 パリ万国博覧会 フランス パリ
1889年 パリ万国博覧会 フランス パリ
1893年 シカゴ万国博覧会 アメリカ合衆国 シカゴ
1900年 パリ万国博覧会 フランス パリ
1904年 セントルイス万国博覧会 アメリカ合衆国 セントルイス
1915年 パナマ太平洋万国博覧会 アメリカ合衆国サンフランシスコ
1926年 米国独立150周年記念万国博覧会 アメリカ合衆国フィラデルフィア
1933年 シカゴ万国博覧会 アメリカ合衆国 シカゴ
1935年 ブリュッセル万国博覧会 ベルギー ブリュッセル
1937年 パリ万国博覧会 フランス パリ
1939年 ニューヨーク万国博覧会 アメリカ合衆国 ニューヨーク
1949年 ポルトープランス万国博覧会 ハイチ ポルトープランス
1958年 ブリュッセル万国博覧会 ベルギー ブリュッセル
1962年 シアトル万国博覧会 アメリカ合衆国 シアトル
1964年 ニューヨーク万国博覧会 アメリカ合衆国 ニューヨーク
1967年 モントリオール万国博覧会 カナダ モントリオール