【古写真関連資料】幕末明治の写真師と、新興写真研究会(フォトタイムス・木村専一)

フォトタイムス

◆研究会への主たる参加者

主幹:木村専一
顧問:板垣鷹穂、衣笠貞之助、鈴木重吉、石川寅治、荻島安二、小松栄
賛助顧問:結城真之輔
同人:西山清、窪川得三郎、寺川良輝、堀野正雄、榊原松籟、鉄末次郎、吉岡敏三、海部誠也小林祐史三国庄次郎、黒田六花
幹事:玉置辰夫、渡辺義雄、田村栄、伊達良雄、平野譲、塩谷成策
主たる会員:飯田幸次郎、宮越吉松、小川三郎、佐藤黒人、平野進一、徳堂翠鳳、花和銀吾、阪玉陽、石山泰久、黒沢中央、古川成俊(父は古川震次郎)、光村利弘、福田勝治、高尾義朗(全50名程度)
(注)新興写真研究会存続期間中のうち、一部期間についてのみ、該当する者も含む。「同人」は、幹事会により、「会員」から選ばれる。「幹事」は、選挙により、「同人」または「会員」から選ばれる。

◆ 新興写真研究会の概要

オリエンタル写真工業(現・サイバーグラフィックス)の宣伝課内に置かれた「フォトタイムス社」が刊行した写真雑誌『フォトタイムス』の編集主幹・木村専一は、1929年から同誌に「モダーンフォトセクション」というページを設け、新しい写真の動向を積極的に紹介した。これが本研究会結成の基礎となる。

1930年に結成。名前の通り、新興写真を志向しており、その一大拠点となった。本会の名称が「新興写真」の名前を生み出したとも言われる。

主要メンバーは、木村のほか、堀野正雄、渡辺義雄、伊達良雄(1907年-1946年)、古川成俊(1900年-1996年)、光村利弘(1901年-1943年)ら。

結成と同年に『新興写真研究』という会誌を発行し、写真作品や板垣鷹穂らの論文を掲載していたが、木村専一の渡欧により、翌年発行の第3号で休刊した。ただし、展覧会を全部で7回、1930年から1932年まで開催していることから、会自体は1932年までは存続していることがわかる。

◆雑誌『新興写真研究』の執筆者等

第1号(1930年11月)
論文等の執筆者:板垣鷹穂、木村専一、堀野正雄、佐藤黒人、平野譲、田村栄
掲載された写真作品の撮影者:堀野正雄、伊達良雄、玉置辰夫、小川三郎、西山清、吉岡敬三、榊原松籟、鉄 末次郎、徳堂翠鳳、窪川得三郎、宮越吉松、寺川良輝
第2号(1931年1月)
論文等の執筆者:木村専一、平野進一、堀野正雄、平野譲、伊達良雄
掲載された写真作品の撮影者:堀野正雄、黒沢中央、玉置辰夫、木村専一、光村利弘、渡辺義雄、石山泰久、飯田幸次郎、平野進一、寺川良輝、阪玉陽、西山清、田村栄
第3号(1931年7月)
論文等の執筆者:木村専一、堀野正雄、平野譲、佐藤黒人
掲載された写真作品の撮影者:堀野正雄、木村専一、田村栄、窪川得三郎、西山清、吉岡敬三、渡辺義雄、平野進一、伊達良雄、古川成俊、光村利弘、寺川良輝

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◆フォトタイムス
戦前の日本で、オリエンタル写真工業企画宣伝課内に設置されたフォトタイムス社から刊行されていた写真雑誌。1924年3月創刊、1941年休刊。1924年3月に創刊し、創刊時には、木村専一が編集主幹であった。

1929年3月から、「モダーン・フォトセクション」というコーナーを設けて、欧米の写真の新動向(新興写真)を紹介し、日本の写真に大きな影響を与えた。この雑誌の写真掲載者、執筆者、読者等の中から、新興写真の担い手が多く登場していき、木村が1930年に結成した新興写真研究会の母体ともなった。

1931年には、渡辺義雄が編集に参加している。

1931年から1932年にかけて、木村が他数名と欧米の写真状況を視察し(バウハウスも訪問)、モホリ=ナジ・ラースロー、マン・レイ、ウンボらの300点以上の写真作品を取得し、帰国後、これらの写真作品をフォトタイムスに掲載して、視察状況を紹介した(1932年12月号から1934年3月号まで)。

1932年には、渡辺義雄の戦前の活動を代表するシリーズ「カメラ・ウヮーク」を掲載している。

木村専一に次いで、1933年から田村榮が編集長となり、1940年12月まで継続した。戦時雑誌統廃合のため、1941年1月号からは『報道写真』に統合され、戦後は復刊することがなかった。

アサヒカメラに比べて、アマチュアのためというよりは、営業写真家を含めてプロの写真家のための雑誌という色彩が強かった(たとえば、撮影・現像等の技術を紹介する記事は、アサヒカメラに比べてかなり少ない)。また、海外の動向の紹介にも積極的であり、新興写真のみならず、前衛的な写真作品も多く掲載した。また、報道写真も十分に紹介している。1930年代末期には、さすがに、その内容は戦争写真に傾斜していったが、その間にも、前衛写真への視線を忘れてはいなかった。

なお、判型は、創刊時は菊判、1936年1月号から「ライフ判」、1937年1月号から四六倍判へと変化したという。

◆木村専一

日本の写真編集者、写真家。写真家・森芳太郎に写真を学ぶ。

1923年にオリエンタル写真工業に入り、1924年創刊された写真雑誌「フォトタイムス」の編集主幹となった(オリエンタル写真工業宣伝課のなかにフォトタイムス社が設けられた)。1925年頃から、同誌上に「モダーン・フォトセクション」というコーナーを設けて、欧米の写真の新動向を紹介し、日本の写真に大きな影響を与えた。

1930年には、堀野正雄、渡辺義雄らとともに新興写真研究会を結成し、会長として、新興写真の振興に努めた。

1931年から1932年にかけて、山田英吉、中山正一、安本江陽とともに渡欧・渡米し、現地の写真の状況を視察した(バウハウスも訪問した)。その間、ラースロー・モホイ=ナジ、マン・レイ、ウンボらの300点以上の写真作品を取得し、帰国。フォトタイムスにこれらの写真作品を掲載しつつ、視察状況を紹介した(1932年12月号から1934年3月号まで)。なお、現在、これらの作品の一部は、東京都写真美術館に所蔵されている(「木村専一コレクション」)が、展示等によりその全貌が紹介されたことはない。

1934年には、オリエンタル写真工業を退職し、武蔵野写真学校を創立した。