
五人兄弟の3番目に生まれており、旭光学工業(現在のペンタックス)の創業者・梶原熊雄は兄。画家の梶原貫五(明治20年生、福岡出身)は弟。
修猷館で学んだ。明治26年、アメリカに移民。シアトルの写真館で勤務し、写真術を学んだ。
一度帰国し、政府の要請で写真関連の仕事をしたという。再び渡米し、明治38年にセントルイスに移住し、ワーウィックホテルに住んでいたという。この頃、ビリヤードで著名なウィリーホッペと交流があった。
のち、セントルイスで写真スタジオを開く。主に肖像写真を撮影していた。
大正3年、センチュリービルディングに写真館を移転。当時のエッセイなども残っている。東洋とアメリカの技法を組み合わせた絵画が得意で、写真家仲間のアルバートH.ストレブラーからも称賛されていた。また、ジュリアスシーザーシュトラウスとともに、セントルイスで最高の肖像画家と言われた。油彩画家に転向。肖像画を中心に制作。
この頃、兄の会社(旭光学工業)で自身の名が付いた「タクマー・レンズ」の開発に当たっている。大正 15 年、カンザス・シティー美術館から銀メダル。
昭和10年頃、アメリカに帰化している。
昭和11年、ニューヨークに移転。ニューヨーク州クイーンズで、ワシントン大学の診療所で社会福祉従事者として勤務していたウィスコンシン州のファーンホートンシアールズと結婚。結婚式を行った場所はセントルイスの芸術家であるポール・F・バーダニエの家であった。フレデリックオークスシルベスターという画家とも交流があった。
昭和13年、日本へ帰国。昭和14年ふたたびニューヨークに戻った。
のちにセントルイス・アーチスト・ギルドで度々受賞。昭和21年、ザブリスキー賞。 昭和23年、アメリカ美術家連盟から金メダル受賞。昭和31年、ニューヨークで死去。墓地は多磨霊園。
生年/出身: 1876 福岡
開業年:
開業地、主要拠点: 海外(アメリカ・セントルイス)
師匠: 三苫 利三郎
弟子: