
松代藩士の家系と思われる。明治 10 年、上京し、工部省技芸学校で学んだ。 明治 20 年、鈴木真一から写真術を学んだ。同郷の宮下守雄(宮下欽の跡継ぎ)もほぼ同時期に鈴木真一の弟子になっている。日清戦争で戦地を撮影。 明治 29 年、鈴木写真館の技師。のち小川一真の写真館の技師。明治35年、鈴木真一は女子美術学校の写真学科増設に賛同したが計画が見送られる。そのため弟子の河村勇次とともに牛込西五軒町に女子写真伝習所を設立。明治期の女性に写真術を教える唯一の教育機関であった。明治37年時点の風俗画報に学校紹介として「監督鈴木真一、河村勇次、顧問春日定夫、教師矢田鋭子と記載されている。
明治 36 年、六桜社の技師となり学生監となる。大正12年、七代目杉浦六右衛門の意思により設立された小西写真専門学校(杉浦甚太郎)は、結城林蔵が校長、加藤精一が理事長に就任。製版術・写真工芸を結城林蔵、写真光学を加藤精一、光化学を杉浦誠二郎、写真学通論を秋山轍輔、化学を長岡菊三郎が、採光を小野隆太郎、実習を春日定夫、印画を宮内幸太郎、修整を前川謙三と檀上新吉、材料薬品を江頭春樹が担当した。
大正 15 年、小西六写真専門学校理事となる。 大正 15 年、講義中に倒れ死去。
生年/出身: 1856 長野(松代)
開業年:
開業地、主要拠点: 東京(京橋区尾張町新地)
師匠: 鈴木 真一(初代)
弟子: