
◆ 菊池 常右衛門
黒船来航に遭遇。外国人の写真撮影を見てヨーロッパ化学の勉強を志した。
◆ 横山 松三郎
嘉永 7 年、ペリーの米艦隊が箱館に上陸したときに、写真を知る。
◆ 久世 治作
嘉永 6 年、ペリー来航のとき、藩命で人足を徴発して警備隊を組織し浦賀に赴任。 このとき、洋学の必要性を痛感し、以来、舎密学を独学する。
◆ 宇田川 興斎
嘉永 6 年、ペリー来航の際に箕作阮甫らと共に対米露交渉時に翻訳業で活躍。
◆ 下岡 蓮杖
嘉永 6 年、ペリー来航。この頃まで浦賀に在したが写真探求のチャンスは無かった。 嘉永 7 年、ペリーが再び来航。その際、従軍写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアが同船していた が、写真術を学ぶことはできなかった。
◆ 江崎 礼二
嘉永6年には、前年のペリー艦隊(下田)に同行していた写真家・ エリファレット・ブラウン・ジュニア によりもたらされた写真技術を、大垣藩人夫頭・久世喜弘が現地から大垣に伝えている。
◆エリファレット・ブラウン・ジュニア
アメリカ合衆国の画家・写真家。
日本においては、黒船来航時にペリーに随行した写真家として知られている。寄港した琉球や日本で、自然や人物をダゲレオタイプ(銀板写真)で撮影した。このうち人物写真6点が現存している。ブラウンが撮影した銀板写真は、現存する日本最古の写真とされ、日本国内で日本人を撮影した現存最古の写真群である。
1816年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ニューベリーポートに生まれる。若くしてニューヨークに出て商業的な画家となり、肖像画や歴史画、風景画などを手掛けた。
弟のジェームズも画家であった[5]。ダゲレオタイプの技術に触れたのはジェームズが先で、エリファレットは弟からダゲレオタイプ撮影技術を習得した。
1852年、マシュー・ペリーの日本遠征に随行。アメリカ合衆国海軍のマスター・メイトという身分を与えられた。同様にペリー一行に同行した画家にはヴィルヘルム・ハイネがいる。
1853年5月、琉球王国那覇の天久聖現寺(天久山聖現寺)で地元住民を撮影した記録が残る。ブラウンは、そのほか下田・箱館・横浜などの上陸地で人物・風景・建築を撮影した。

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横浜に近い石川郷(横浜市中区石川町)の名主が記した『亜墨理駕船渡来日記』(武相叢書に収録)には、1854年4月(嘉永7年2月)に石川郷でブラウンが写真撮影をおこなった様子が記されており、「写真鏡」が描写されている。箱館には1854年5月17日(旧暦4月21日)から6月3日(旧暦5月8日)まで滞在し、実行寺にスタジオを構えた。
ブラウンの撮影した写真をもとに木版画やリトグラフが制作され、『ペリー提督日本遠征記』に収録された。ペリーの遠征中、ブラウンは400点以上のダゲレオタイプを撮影したと主張しているが、後述の通りほとんどの写真原版は失われ、現存する写真は6点のみである(2006年現在)。
ブラウンは帰国後もアメリカ海軍にとどまり、自己の旧作管理を除いて写真や版画の制作から離れた。地中海艦隊提督秘書などを務めたあと1875年に退役。1886年にニューヨークで死去。
ブラウンがペリーに同行した際に撮影したダゲレオタイプで現存するものは、以下の6点のみである。ブラウンが制作したダゲレオタイプは、『ペリー提督日本遠征記』出版のためいくつかの印刷所に預けられていたが、1856年にそのうちのひとつデュバル社が火災で焼失。また、ほかの会社に預けられたものも紛失したとされる。
日本国内に現存するブラウンのダゲレオタイプ5点は、2006年6月9日付で日本の重要文化財に指定された。うち、松前藩関係者である松前・遠藤・石塚の写真には添状が付属しており、いずれも箱館で撮影されたこと、1854年6月1日にペリーから贈られたものとする旨が英文で記されている。ペリー側の通訳ウィリアムズの日記によれば、手渡しは5月24日とあるが、遠藤・石塚の写真裏にはペリーから贈られたものとする趣旨が漢文で記され、日付は「甲寅五月初六日(旧暦5月6日)」とあり、横浜美術館では6月1日の手渡しを裏付けるものとしている。