横山 松三郎(よこやま まつさぶろう)

横山 松三郎写真師ガラス原板

別名は横山文六(三代)。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、国後島・択捉島間の航路を開拓した豪商の廻船商人・高田屋嘉兵衛および高田屋金兵衛に仕え、冬期以外は箱館から択捉島に出向き、漁場を管理(支配人)していた。 天保 4 年、高田屋が闕所処分を受ける。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、その後も松前藩の場所請負人制となり択捉島で引き続き支配人を務めた。 嘉永元年、父が亡くなり、家族とともに箱館に帰る。 嘉永 5 年、箱館の呉服屋で奉公する。 画を好み、葛飾北斎の漫画を写していたという。 嘉永 7 年、ペリーの米艦隊が箱館に上陸したときに、写真を知る。 安政 2 年、商店を開いた。

安政3年、箱館に「諸術調所」という洋式学問所を開設し、横山松三郎は諸術調所で武田斐三郎から薬品の調合を学んでいた。 武田斐三郎は宮下欽の縁者である牧野毅と強く関わっている人物。

安政 4 年、病気のため商店を閉店。この頃、写真機の製作を試みる。 安政 6 年、箱館が自由貿易港となり、米国人・露国人・英国人が住むようになると、彼らから洋画・写真術を学んだ。 ロシア領事ヨシフ・ゴシケヴィッチから昆虫の実写画を頼まれ、その代わりに写真術を学んだ。 文久元年、函館のロシア領事館の神父・ニコライ(日本に正教を伝道した大主教。日本正教会の創建者)を通じて、ロシア人通信員レーマンの助手となり、洋画を学ぶ。 文久 2 年、海外で写真を学ぼうと、箱館奉行所の香港・バタヴィア行貿易船「健順丸」に商品掛手附とし て乗り込む。しかし、品川港で渡航中止となってしまった。 元治元年、上海へ渡航が叶う。欧米の洋画・写真を見聞した。 帰国後、横浜で 下岡蓮杖に印画法を教わる。 のち箱館に戻った。 慶応元年、再び上京し下岡蓮杖に写真と石版術を教わる。 慶応元年、箱館に戻り、木津幸吉田本研造に印画法を教えた。 明治元年、下岡蓮杖に再び石版印刷を学んだ後、江戸両国元坊に写真館を開く。 明治元年、上野池之端に移転し、館名を「通天楼」とした。「通天楼」は、写真館兼私塾であったという。明治元年頃、中島待乳は横山松三郎に師事し、修正術・採光法を学んだ。 なお、待乳の号は横山松三郎が浅草名勝待乳山に因んで付けたとされる。 明治元年、宮下欽が学んでいる。 宮下欽は門人として技術を磨いていただけでなく、「通天楼」の経営面にも奔走していたという。明治 3 年(2 年とも)、門人たちと共に日光山に赴き、中禅寺湖や華厳滝、日光東照宮などを撮影。 片岡如松は日光山撮影に訪れた横山松三郎に同行し、写真術を習う。岩の上で帽子を振る横山松三郎の様子を撮影している。 横山松三郎の「松」の字をとり、片岡久米から片岡如松と改める。 明治 4 年、蜷川式胤(外務省官僚)の依頼で、内田九一と共に荒れた江戸城を撮影。 明治 5 年、蜷川式胤により『旧江戸城写真帖』計 64 枚に編集。洋画家・高橋由一によって彩色された。 明治 6 年、通天楼に洋画塾を併設。亀井至一や亀井竹二郎、本田忠保などの画家を育てた。 明治 7 年、漆紙写真と光沢写真を作った。 明治 7 年、成田常吉が学んでいる。 明治 8 年、菊地新学が学んでいる。 明治 8 年頃、山田境が学んでいる。 明治 9 年、織田信貞に通天楼を譲渡して、陸軍士官学校教官となる。 フランス人教官アベル・ゲリノーから石版法や墨写真法などを教わる。 明治 11 年、士官学校の軽気球から日本初の空中写真を撮影。 明治 13 年頃、「写真油絵法」を完成させる。 明治 13 年、田中美代治が学んでいる。 明治 14 年、陸軍士官学校を辞し、『写真石版社』を銀座に開く。 明治 17 年、市谷亀岡八幡宮社内の隠居所にて死去。墓地は函館の高龍寺。 明治 18 年、写真油絵技法は弟子の小豆澤亮一に継承された。 弟・横山松蔵は北海道で写真師となっている。 妻は紙半旅館(栃木日光下鉢石町)の主人・福田半兵衛の長女・ 蝶(ちょう)。甥の慶次郎(松三郎の妹・千代の息子)はのち養子に迎え、「横山慶」と改名。

明治8年の東京名士番付『大家八人揃』(東花堂)に「清水東谷横山松三郎内田九一守山(森山)浄夢加藤正吉北丹羽(北庭)筑波小林玄洞」の名がある。

生年/出身: 1838 北海道(択捉島)

開業年:

開業地、主要拠点: 北海道、東京

師匠: 下岡 蓮杖

弟子: 山田 境 木津 幸吉 田本 研造 宮下 欽 片岡 如松 小豆沢 亮一 菊池 常右衛門 菊池 新学 田中 美代治 中島 待乳 成田 常吉 松崎 晋二 横山 松蔵 北庭 筑波 津田 新太郎