【古写真関連資料】写真師たちと、三越写真部、ほか百貨店写真部

【古写真関連資料】三越写真部、ほか百貨店関連

◆三越百貨店

玉村 騎兵衛は大正 12 年、関東大震災の後、大阪に移住。 大阪三越写真部に勤務しながら、狼華写真倶楽部や天弓会などの展覧会に出品した。

山浦 翠村は大正 4 年、吉田寧夫の下で営業写真を研究。 のち三越の柴田常吉に学んだ。

柴田 常吉は明治 39 年、北清事変に従軍、日露戦争にも博文館写真班として撮影。三越写真部技師長も務めた。

小池 敦隆は 昭和 6 年、東京三越に招かれて写真部長に就任。

百瀬 藤雄は昭和 4 年、東京・日本橋三越で全紙サイズの山岳写真約 40 枚による「日本アルプス展覧会」を開催。

◆伊勢丹百貨店

小川 晴暘は昭和 16 年、東京新宿の伊勢丹百貨店で「大同雲岡写真展」を開催。

◆大丸百貨店

高橋 慎二郎は、明治 42 年、第一回大丸写真展覧会で優等に入選。

『月の鏡』の中に、桑田正三郎佐貫徳兵衛吉田清七と三人で近年京都大丸の写真部で撮影した写真があり、「三人共に同年京都の出生」と記載されている。

上田 貞治郞の孫(長女・上田百子の長女・光子)は大丸社長の井狩彌治郎に嫁す。

◆三越
株式会社三越伊勢丹ホールディングス傘下の株式会社三越伊勢丹が運営する日本の老舗百貨店。また、株式会社三越は、かつてこれを運営していた会社である。

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商号の「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」からとったもので、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した際からのものである。1935年に竣工した日本橋本店は、国の重要文化財に指定されている。現在の同店のキャッチフレーズは、「飾る日も 飾らない日も 三越と」、「This is Japan」。江戸時代の1673年(延宝元年)に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。1928年には「株式会社三越」となった。

「三越」改称の案内の際に「デパートメントストア宣言」を行い、そのことを以て日本での百貨店の歴史が始まりとすることが多い。(実際の百貨店化の動きなどの日本の百貨店の始まりについての詳細は日本の百貨店の歴史参照)。また三井財閥(現三井グループ)のルーツとなった「越後屋」の呉服店事業を引継いだため、「三井財閥(現三井グループ)の礎を築いた企業である」とされることも多いが、企業としての三越としてみるならば、三井の事業から呉服店部門のみを「合名会社三井呉服店」として分離したのが始まりである。

2003年(平成15年)9月1日に、当時の「株式会社三越」とその子会社である「株式会社名古屋三越」「株式会社千葉三越」「株式会社鹿児島三越」「株式会社福岡三越」の百貨店5社が新設合併し、新「株式会社三越」が設立された。

売上高営業利益率は、グループ連結で1.09%、百貨店事業単独で0.799%と百貨店業界の中でも不振が続いていたため、2008年9月に百貨店4店舗・小売店2店舗の閉鎖を発表し、店舗の整理を始めた。また、経営統合後の再編方針により、2010年4月1日付で関東以外の店舗を分離した。

2008年4月1日、伊勢丹による三越の救済合併により、三越伊勢丹ホールディングス設立(存続会社は伊勢丹)。合併(株式交換)比率は伊勢丹株1株に対し三越株0.34株である。三越と伊勢丹の合併は、三越の長期低迷に危機感を持っていた三井住友銀行が東京三菱UFJ銀行を通じて伊勢丹側に持ちかけたとされる。

残った店舗については、2011年4月1日に伊勢丹と合併して発足した(存続会社は三越)「株式会社三越伊勢丹」の運営となった。また、同日には、札幌丸井今井と札幌三越の両社も統合し(存続会社は札幌丸井今井)、「株式会社札幌丸井三越」が発足している。